2012年 02月 27日
宇美八幡宮・糸島(1)仲哀天皇の殯斂地と特殊神事
宇美八幡宮(1)
福岡県糸島市長野
仲哀天皇の殯斂地と故事を伝える特殊神事
前回の雉琴神社から西へ約1.5キロ弱に宇美八幡宮があります。
県道12号線から見ると丘の麓に鳥居が見えて「こっちだよ」と教えてくれるのですが、
正面には道がありません。

この写真だと右の方に八反田の信号があるので、そこから左折して
すぐにもう一度左折すると、案内板があって農道を通って辿り着きました。

車道は参道の途中を横切るように通っているので、
この鳥居は二か三の鳥居になります。
参道の左には見事な藤棚があったので、それを目印にするといいです。

二つ目の石段です。丘の上に上って行きます。

すぐ右側に拝殿がありました。森厳な感じが伝わって来ます。

拝殿は広くて、浮彫りが施され、建物は向こうが透けています。

神殿に廻ると武官像が左右に控えていました。
このような造りを見るのは初めてです。
格式の高さを感じさせられます。宝暦9年(江戸時代)の建立です。
この宇美八幡宮には本宮と上宮があって、現在地は本宮です。
上宮には仲哀天皇が祀られています。
今回は上宮には参拝しなかったのですが、仲哀天皇の御棺が一時期納められていたと伝えます。
まずは神社にあった縁起を書き写します。
宇美八幡宮縁起
祭神
上宮 仲哀天皇
本宮 気比大神、応神天皇、神功皇后、清瀧権現、玉依姫、瓊々杵尊
由緒
上宮 長嶽山(前の山)南方に鎮座(周囲45間)丸型山稜、頂上に石祠がある、祭神は仲哀天皇。当社の縁起によれば、神功皇后の摂政元年、武内宿禰に命じ、香椎に在るところの先帝のお棺を当山に収めて、築陵したとある。皇后の三韓御渡航の折の御殯斂(ひんれん)の地か。

これは長嶽山を上から見た図です。
北に本宮が有り、南に仲哀天皇を祀る石祠があって上宮と言います。
縁起では、「香椎宮にあった棺をここに収めたので、三韓に渡航する間の殯斂地としたのか」
とあります。
大分宮(だいぶぐう)の裏の山にも仲哀天皇の殯斂地があるので、
天皇の御印のようなものを棺に入れて、共に行動したのだろうかと、
ちょっと考えました。真実はどうなんだろう…。
宮司さんの家がすぐ隣にあったので勇気を出して訪ねました。
ちょうど在宅で、話を伺うと、
「仲哀天皇は幡振山(はたふりやま)→不動池
→筒原という神籠石の水門の下の不動滝
→嵯峨里の集落→雉琴神社の横のしょうずの水
(雪が降っても積もらない所で、25度~26度の湯が湧く)
を通って室小路で急に亡くなられた」
という話でした。死因は分からないそうです。
(話を聞いた時は地名がよく分からず、順や名称が違っているかも知れません。)
「そこで、仮埋葬するモガリの宮の場所を占った所、すぐ近くの小高い丘に決まったんです。
それがここで、長嶽山と言います。
のちに武内宿禰がやって来て、棺を掘り出していったと聞きます。
仲哀天皇が亡くなった場所では毎年お祭りをします。
10月15日(に近い土日)は朝8時から神饌を調理しますが、
宮方二名と宮司が一の膳から五の膳まで52種類の料理を作ります。
それから室小路へと進みます。
室小路が亡くなった場所で、現在はそこは田んぼになっているので、
横の道路で行いますが、昔は稲を刈って神事を行っていました。
宮司と宮方2人。男子、女子の正稚児で催行します。
正稚児が八幡宮を向いて、杯についだ甘酒を飲んで青豆を3粒食べて、
それを三回繰り返します。」
この稚児の不思議な動作は当時の占いを模したものでしょうか。
「三台の神輿が鎮懐石八幡宮(ちんかいせき)まで七日かけて往復します。」
(かつての道はウケの森(ウブゲの森)→ボラ峠→下向道→こゆがはら)
驚く事ばかりでした。宇美八幡宮が鎮懐石八幡宮と繋がった…。
このように故事にちなむ祭事を聞くのは初めてで、
メモを取るのがやっとで、話の断片をつないだものなので、
これから先、訂正する事があろうと思います。
(不正確な文なので、引用はしないでくださいね。
何度か電話でも教えていただいたのですが、まだまだ不十分です。)
ただただ、「この祭は大変な文化財だ」という思いがします。
これほどの祭事にしてまで伝えられる仲哀天皇の崩御の地。
あの記紀の話は?
あの御勢大霊石の話は?
どれが真実なのか?
伝承をつないで来た私はここで途方に暮れたのでした。
それでも、さらにこの伝承に厚みをもたらしたのはこの話をしてくださった宮司さんの姓です。
その姓は武内。
武内宿禰の子孫81代目だそうです。
(つづく)
地図 宇美八幡宮
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