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ひもろぎ逍遥

神在神社・大伴の狭手彦が祀った宮だった


神在神社
かみあり
福岡県糸島市神在
大伴の狭手彦が祀った宮だった 

「神在」(かみあり)という地名は
神功皇后が「霞たなびき、神が在られる」と言ったことから付いたといいます。
どんな所でしょうか。
前回の宇美八幡宮から北の方に3キロほどで着きました。
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小さな住宅街の最奥に神社はありました。

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境内は花が植えられていて、よく手入れがされています。

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一段高い所に本殿がありました。
由緒書きがあったので、写します。(一部ひらがなに)
神在神社由緒
1.鎮座地 福岡県糸島市神在801
2.祭神 
   天常立尊(あめのとこたちのみこと)天を守る神、陸・海交通守護、特に航海安全、縁結び
   国常立尊(くにのとこたちのみこと)地を守る神、縁談成就、子授け、安産など
                 もろもろの願い事
   伊弉諾命(いざなぎのみこと)国土の基礎を築いた神、国家安泰、子孫繁栄、五穀豊穣
   伊弉冊命(いざなみのみこと)国土の基礎を築いた神、家内安全などの願いごと
   瓊瓊杵命(ににぎのみこと)五穀豊穣、大漁、交通安全の神
   彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)五穀豊穣、豊漁、雨乞い、一家繁栄の神
   菅原神(すがわらのかみ)文章博士であったので学問の神様として敬う。
               学問全般にわたり御利益あり。

3.由緒
 第28代宣化天皇の2年壬辰(みずのえたつ―572年)征新羅将軍に任ぜられた大伴連狭手彦(おおとものむらじさでひこ)は、新羅遠征と任那(みまな)百済(くらだ)救援の成功と渡海の安全を為すため都(奈良県高市郡)より七世の神(国常立命・伊弉諾尊・伊弉冊尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見命・保食命(うけもちのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)を勧請し、当地に神社を建立したのが神在神社の始まりとされています。

最初は牧の天神山に在って勝れた神徳に人々が集まり村ができ、盛んに信仰されました。しかし戦国時代となり激しい戦乱のなかで祭りは途絶え社殿は荒廃し、神社の古いいわれを知る人もわずかになりました。

戦乱が終わり、平和な世の中になった、寛文4年(1664)識者と村の有力者が、小社を今の宮所神在に建立しました。さらに宝永4年(1707)古屋敷(ふるやしき)にあった社殿などを再建し、相殿左に菅原神を祀り、右座に六柱天神を祀りました。

また野崎の天神山に祀られていた埴安命(はにやすのみこと)も合祀して現在の神在神社の姿になりました。(後略)
御祭神が天常立尊から始まって国常立・イザナギ・イザナミなどと、
そうそうたる顔ぶれですが、これらが大伴連狭手彦の勧請によるものだと知って、
興味深く思いました。
大伴の狭手彦は唐津の佐用姫伝説で、佐用姫が恋い慕う人として、
馴染み深い名前だからです。
彼は戦うために二度も朝鮮半島に渡っています。
その将軍を恋い慕うあまり、佐用姫が石になったという伝説は今も人々に語り継がれています。
詳しくは、鏡山稲荷神社(1)~(2)に書いています。

その狭手彦とはどんな人でしょうか。日本書紀から拾い出してみましょう。
宣化天皇2年。(536年)冬10月1日に、天皇は、新羅が任那を攻撃したことを知って、大伴の金村大連に命じて、その子の(いわ)と狭手彦(さでひこ)を遣わして、任那を助けました。その時に磐は筑紫に留まって、その国の政治を行い、三韓に備えました。狭手彦は行って、任那を鎮圧し、また百済を救いました。

欽明天皇23年(562年)8月に、天皇は大将軍大伴の連狭手彦(さでひこ)を派遣して、兵数万を率いて高句麗を討たせました。狭手彦は百済の計略を用いて、高句麗を打ち破りました。その王は垣を越えて逃げました。

狭手彦はついに勝って、宮殿に入り、珍しい宝物の数々と・七織物のカーテンと鉄屋(くろがねのいえー内容不明)を手に入れて帰還しました。(鉄屋は高句麗の西の高殿の上にあったもので、織物のカーテンは王の奥の部屋のものという)七織物のカーテンは天皇に献上しました。

甲二領、金細工の太刀二振り、彫刻を施した銅の鐘三つ、五色の幡二棹、美女姫(おみなひめ)に侍女の吾田子(あたこ)を付けて、蘇我の稲目の宿禰の大臣に送りました。大臣はその二人を召し入れて妻にして、軽の曲殿(まがりどの)に住まわせました。(鉄屋は長安寺にあるが、どこの国にあるのかは分からない。)
(※長安寺趾が朝倉市にあります。朝倉の橘の広庭宮の候補地の近くです。
悲恋の感想は鏡山稲荷神社の方にて)

狭手彦の戦いの相手は一回目が新羅。二回目が高句麗です。
常に倭国は韓半島の情勢を把握しているのが分かります。
船を出すのは唐津からです。
ですから、この神在という所は、近畿からも筑紫からも
唐津に往来するために通過する要衝の地だと思われます。

狭手彦が渡海の安全と勝利を願ってこれらの神々を祀った背景が分かりました。
神社の由緒からは神功皇后の名は消えていますが、
「霞がたなびき、神が在られる」というほど神秘的な場所だったのでしょう。

神功皇后が祭祀した所に狭手彦が改めて祭祀をしたと考えます。
同じように海を渡っての戦いなので、神功皇后の功績にあやかれるよう、
心から望んだ事でしょう。
現在の神社は各地から遷座しているようなので、それぞれの宮の元の場所が分かれば
もっと具体的な古代の景色が再現できるのではないかと思いました。

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これは拝殿から境内を写したものですが、向こうに山が見えます。
地図を見ると宮地岳のようです。
神奈備型の秀麗な山を各地で宮地岳と付けています。
宮地岳とは北極星を祀る山だと聞きます。
ですから、この宮地岳のずっと南にその祭祀場があると思われます。
(地図を見ると南に天降神社があり、祭神はニニギの命なので、
これはまた調べることにします。)

この神在神社は宮地岳の南西にあるので北極星を祀る訳ではないですが、
遥拝所の一つだったのかも知れませんね。

<蛇足>
ところで、日本書紀の
大伴の金村大連に命じて、その子の磐(いわ)と狭手彦(さでひこ)を遣わして、任那を助けました。その時に磐は筑紫に留まって、その国の政治を行い、三韓に備えました。
の一文が気になりました。
「大伴の磐が筑紫で政治を行った」と書いてあります。
当時の筑紫の施政所はどこにあったのでしょうか。

大宰府でしょうか。磐瀬宮でしょうか。愛宕山でしょうか。
分捕り品の鉄屋というものが運ばれた長安寺跡が朝倉にあるので、
朝倉だったのでしょうか。
これって、九州王朝と関係あるのでしょうか?

う~ん。どなたか調べた方、ありませんか?


地図 神在神社




狭手彦と佐用姫の話はこちら
http://lunabura.exblog.jp/i80/
鏡山稲荷神社(1)佐賀県唐津市松浦佐用姫伝説の石を見に行ったけど
鏡山稲荷神社(2)異世界は盤座の世界だった イナリと鉄と悲恋







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Commented by hurutakaimasaki at 2012-02-29 22:23 x
①」『大宰管内志』に「朝倉社恵蘇八幡宮・・・社僧の坊を朝倉山長安寺といふ。(注)朝闇寺なるべし」とあります。朝闇=チョウアンです。
半島での激戦時代ですので、防衛上筑後(三潴あたり)を本拠とし、筑後川沿いの朝倉や出撃拠点糸島半島などに行宮をおいたのでは。久米の皇子は嶋郡に軍を集めていますから・・
②「磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ」、つまり「磐」が筑紫国の執政であるという。これは磐井についての『書紀』の「筑紫国造磐井」、『古事記』の「筑紫の君」と同義。筑紫の君磐井が大伴金村に命じて狭手彦を派遣したという記事の潤色なのではと考えています。(新羅に関する騒乱は安閑・宣下当初にはなく、直近は継体期なので、本来はその時代=磐井の乱近辺の記事かと)
Commented by lunabura at 2012-02-29 23:09
コメントありがとうございます。
磐と言う名が磐井と似ているので、気になりましたが、九州王朝論の方ではかなり研究がなされているのですね。
これから、このような事がひとつずつ検討されて古代の筑紫の姿が明らかになればと願っています。

ありがとうございます。
Commented by lunabura at 2012-02-29 23:15
なお、Sさんからも、これに関するHPをメールでいただきました。
皆さんと共有できたらと紹介します。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/iwa.html

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/history1.html

http://www.city.onojo.fukuoka.jp/edu/kyoiku/rekishi/shitei/onojoato.html

by lunabura | 2012-02-28 20:25 | (カ行)神社 | Comments(3)

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