ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

志賀海神社(6)イザナギ・志賀大神・神功皇后の伝承


志賀海神社(6)
イザナギ・志賀大神・神功皇后の伝承 

今回は天保時代の伝承を記録した『志賀嶋所聞録』(宮崎大門)を紐解きながら
伝承と地図を突き合わせる作業をしていきます。(現代語訳します)
幸いに、志賀海神社で戴いたリーフレットに詳しい字名があるので、それを利用しましょう。

c0222861_2256513.jpg

志賀の島の北部、勝馬に元宮の三宮があります。
その地名は神遊瀬(大戸・小戸)舞能ヶ浜(御手洗)と幾つもの名称を持っています。

イザナギ命と志賀大神の記憶
御手洗 イザナギ大神が黄泉の国の穢れを洗い清められた所という。

大戸小戸 大戸小戸というのは勝馬山の側に入り海のようになっていて、その東に穴がある。深くて奥が知れない。志賀皇神たち は神遊の瀬からその穴に出入りされた。それで大戸小戸という。

神遊の瀬 昔、息長足姫尊の大御世の前の代には、志賀の皇神たちはこの三瀬に鎮座して遊居されていた。それで神遊の瀬と言う。

舞能(まいわざ) 昔、息長足姫が諸臣を集めて、志賀大神を招かれた時、神は来られなかった。そこで諸臣たちはいぶかしく思って、篝火を焚いて榊の枝に白幣を取りかけて、天の岩の神楽を奏すると、志賀大神は金色の亀に乗って現れた。
だから、9月8日神幸の神輿の前に舞能を奏する。その時の様子を表すものという。


c0222861_22584013.jpg

ここが御手洗であり、大戸小戸であり、神遊瀬、舞能浜です。
ここでイザナギは黄泉の国から戻って来て禊をして神々が生まれたと伝えます。
生まれた神々の中の海の神の三神がこの海を囲んで祀られています。
   沖津宮 表綿津見神・天御中主神
   仲津宮 仲津綿津見神
   表津宮 現在は志賀海神社に遷宮。跡地が残っています。
左の島が沖津宮で、白い鳥居が輝いています。

ここは「小戸」。イザナギ神話が生まれた原初の場所です。
神功皇后はここまでやって来て志賀大神の為に神楽を奏したので「舞能(まいわざ)ヶ浜」とも言います。

この地から山の方に上って行った所に細型銅剣の鋳型が出土しました。
万葉集に歌われる志賀の白水郎荒雄が対馬の防人へ
食糧を輸送するために出港した場所でもあります。彼は帰らぬ人となりました。

c0222861_22595144.jpg

下馬の浜 昔、息長足姫が勝馬の皇神を参拝しようと、ここで馬を降りられた。それで下馬の浜という。

右に見える丸い島が沖津宮です。右の岬の中には仲津宮があります。
先程の舞能ヶ浜はその向こうです。
勝馬の皇神とは志賀大神(綿津見の神)です。
美しい浜です。神功皇后も馬を下りて歩きたいと思った?

c0222861_2304733.jpg

下馬の浜に寄せる波。玄界灘特有の深い蒼色です。

志賀大神の記憶
塩屋・御塩 神代に志賀大神が生まれた地である。今に至るまでここの四方の海を船で漕いで渡ることを畏れて通らない。また2月15日に神官らが潔斎して船で来て、神楽を奏して海藻を切り取って香椎宮に奉る。これを海藻の祭という。

塩屋という地名は今は無いそうです。が、この小戸(舞能ヶ浜)だと思います。
何故なら志賀大神=大綿津見神が生まれた所だからです。
1月15日の歩射祭の前に、射手は小戸で禊をしてガラ藻を刈り取る事が
現代でも行われているそうです。
また、香椎宮の古宮祭の時に志賀海神社からは海産物を奉納する事が今も続くとか。
藻を刈る神事は海人族の神事として、各地に残されています。

古戸清水 昔 志賀大神はいつもこの水を飲んでおられた清水である。皇神の古戸の清水と言って、常に穢れを忌み、敬った。
丸瀬 昔の時、志賀大神は老翁の姿に化身してここで釣りをされた。今も島人はこの瀬の石に近づく事も忌む。
古戸清水は金印公園の近くで、今でも大変厳しく穢れを忌むそうです。
金印はそんな聖地の近くから出土しています。

乙子の森 乙子の森というのは志賀大神の御子の御塚である。お乳が少なくて辛苦された。今でも乳の出が少ないものが水扱の器を作って祈れば必ず乳がでる。
志賀大神の御子の墓があるのですね。次は志賀島歴史資料館にあった系図です。
どの神を指すのでしょうか。
お乳が出なかったのは豊玉姫でしょうか。彼女の哀しい物語が思い出されます。

c0222861_2331060.gif

神功皇后の記憶
棚の浜 昔、息長足姫が新羅攻撃の時、船の棚を取り付けた所だ。それにちなんで棚の浜という。
叶浜 昔、息長足姫がここに来て、「我が思う事はみな叶った」と言った事から「叶の浜」という。
弘浦 昔、息長足姫が新羅を平定して凱旋の時、船がここに初めて着いた。この浜に上陸して「わが心広し」と言ったことから、弘の浦という。
沖の縄手、地の縄手 弘浦にある。この時軍船の縄手を取り掛けた石を沖の縄手地の縄手と言う。
牧の内 昔、息長足姫が新羅国で乗った馬をこののに放たれた。それから牧の内という。


最初の地図をもう一度。
c0222861_2256513.jpg

これらから推測すると神功皇后は志賀島に三度は来ているようです。
一度は勝馬(小戸の浜)にて志賀大神の参拝をするため。
二度目は新羅攻撃への出港時に寄港。
三度目は凱旋時に寄港。

神功皇后の時代は元宮のある勝馬が舞台です。
彼女の二代前の景行天皇もそこで祈祷したとあります。(福岡県神社誌)
関係する氏族の聖地に出掛けて奉斎するのは彼女のやり方です。

目的はこの聖地を本拠地とする阿曇の長=磯良に
新羅攻撃の船と操縦の依頼をするためだと思いました。
その願いが叶ったのでしょう、
御軍船の舵は安曇磯良麻呂が司り、陪従者は375名。
出港地は香椎宮。志賀島の8人の海士らがお供して船を漕いだ。
と書かれています。
その海士らの名前は奇跡的に大川市の風浪宮に伝わっています。








ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-03-08 23:09 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(2)
トラックバックURL : https://lunabura.exblog.jp/tb/17629713
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by hurutakaimasaki at 2012-03-09 00:15 x
山誉祭の写真、いいですね。見てきたような気がします。
志賀島対岸の博多湾から糸島半島にかけて「君が代」に出てくる地名が集中しています。「君が代」もルーツはここなんでしょうね。
「千代に八千代に」福岡市博多区千代(千代の松原など)
「細石の」糸島市三雲432(細石神社)
「いわほとなりて」糸島市大字瑞梅寺井原山(いわらやま)水無鍾乳洞(鍾乳石=岩穂)
「苔のむすまで」糸島市志摩船越桜谷(桜谷神社。祭神「苔牟須売神」
どうでしょうか?
Commented by lunabura at 2012-03-09 08:54
「君が代」地名が博多湾を巡って存在するという説は地元では結構知られています。
といっても、古代史に興味のある方だけですが。
面白いテーマなので、実際に検証しながら歩くのも楽しそうですよね。
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー