ひもろぎ逍遥

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筥崎宮(1)応神天皇の胞衣(えな)を箱に入れて埋納した


筥崎宮(1)
福岡市東区箱崎
応神天皇の胞衣(えな)を箱に入れて埋納した

筥崎宮と言えば「玉セセリ」と「放生会」(ほうじょうや)が
博多の祭として多くの市民に親しまれています。
今回はその歴史を辿ろうという事で、その長い参道を最初から歩いてみました。
駐車場は鳥居を車のままくぐって参道に入るとすぐ有料駐車場があります。

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三号線の傍に大灯籠がありました。かなりの高さです。
これがかつては博多湾を通る船の灯台になっていたのですね。

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放生会の時には左右に夜店が並び、まだ暑さの残る9月に浴衣を着たりして参拝します。
放生会は「ほうじょうや」と発音します。

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やっと一の鳥居に着きました。
鳥居の数え方は筥崎宮では、社殿に近い方から一、二と数えていくそうです。

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拝殿前です。ちょうどホークス応援の垂れ幕が掛かっていました。
ホークスだってアビスパだって絵馬を掲げて参拝する必勝の神様。
って、どなた?
と、ようやく御祭神を意識するようになりました。

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御祭神 応神天皇   
     相殿 神功皇后 玉依姫
そう。ずっとこれまで一緒だった神功皇后の御子、ホムダワケ皇子が御祭神でした。
生立八幡神社で初めて立ったあの赤ちゃんが、こうして堂々と祀られていました。
神功皇后の御子こそ八幡信仰の中心となった人物なんですね。

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拝殿のすぐ右にあるこの赤い囲いはホムダワケ皇子出産時の胎盤が埋められています。
宇美八幡宮ととても縁が深いのが分かります。

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この日は偶然に扉が開かれていて、中を撮る事が出来ました。
石碑には「筥松」(はこまつ)と書かれています。
立札を読んでみましょう。
御神木 筥松
筥崎宮の御祭神、応神天皇が筑紫宇美の里(粕屋郡宇美にてお生まれになった時、(西暦200年)その御胞衣(おえな)を筥に納めて浪の音も静かな白砂青松の浄地に埋め、標(しる)しの松を植えたところと伝えられている。
それがこのところであって、その後この地を箱崎と称え、この松を「標の松」又は「筥松」といい御神木として尊んでいる。

千早振る 神代に植えし 箱崎の 松は久しき 標しなりけり
              続古今集 法印行清
胞衣(えな・プラセンタ)については宇美八幡宮で勉強しましたが、
縄文の昔から出産後の胎盤を埋めたり、高い所に置いた風習がありました。
このホムダワケ皇子は神功皇后のお腹の中に入ったまま戦って勝ったので、
胎中天皇と言われ、勝利の神として絶大なる信仰を受けました。

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この扁額は鎌倉時代の亀山上皇の自筆を模写したもので、
天皇の巨大な木像が境内の右手に祀られています。

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元寇の時、「身を以て国難に代わらん」と、全国の社寺に国家の安泰を祈願されたそうです。
博多区の東公園の亀山上皇の銅像の原型で612センチの高さです。
(山崎朝雲作 明治35年)

で、「敵国降伏」という字についての由来は
さらに遡って平安時代の醍醐天皇の時代に、
太宰少貳真材朝臣が石清水八幡宮に廻廊を造営寄進しようと立願したところ、
延喜21年6月21日に神託があって、
「あらたに新宮を筑紫の筥崎に造営し、宮殿を乾(北西)に向けて柱に柏(かしわ)を用いよ。
末代になって異国より我が国を狙うものがいれば、吾はその敵を防去する。
故に敵国降伏の字を書いて礎の面、吾が座の下に置くべし」
とあって、宮殿が建てられたといいます。(福岡県神社誌)

石清水八幡宮の祭神がやはり応神天皇ですから、
ゆかりの深い箱崎で日本を守るという神託だったという事になります。

はたして鎌倉時代になって元軍が日本に上陸して大変な戦いになりました。
筥崎宮も戦火にあって炎上しましたが、二度とも戦いに勝った事で、
こうして勝利をもたらす神として、今でも人々の祈りが絶えません。

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境内の右手には元寇の時の碇石が置かれています。

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                  (つづく)


地図 筥崎宮 宇美八幡宮








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by lunabura | 2012-03-11 11:53 | 筥崎宮・はこざき・福岡市 | Trackback | Comments(26)
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Commented by 隠居 at 2012-07-25 06:05 x
昨日,投稿していたコメントのストーリー展開に,すっきりしない部分があり,再考中。
Commented by 隠居 at 2012-07-25 11:59 x
・気になっていたこと。

▼この記事には,不思議なことに,これまで一般的に言われている

(1)筥崎宮は,穂波の大分宮を遷したものである,というストーリーが欠けていて,
(2)延喜21年(921)の託宣が,単に石清水との関係で書かれているというよりも,石清水の関係がクローズアップされている。
(3)そもそも,神社を別な(距離もかなり隔たった)場所に遷すという事は,どういう事なのか。
(4)遷された元の神社,或いはその社地はどうなるのか。
(5)こういった類いの事は,他にも例があるのか。
Commented by 隠居 at 2012-07-25 12:01 x
・石清水八幡宮は貞観2年(860)豊前の宇佐八幡宮を勧請したもので,いくら朝廷の権威が背景にあるとは言え,
この時点では,たかだか60年程度の歴史しかない。

▼以前,現在原発で揺れている山口県上関町“祝島”の1,000年以上続いているという神舞について調べた時,
そこに登場したのは,石清水との関係であった。

・神舞の背景は,仁和2年(886)豊後国東,伊美郷の領主が石清水を勧請するため派遣した勧請使一行が,瀬戸内海を航行の折難破して,祝島の人々に助けられた事が縁だったという。
Commented by 隠居 at 2012-07-25 12:03 x
・しかし,私が気になったのは,筥崎宮同様,石清水との関係であった。
伊美郷のある場所は,国東。石清水の本宮である宇佐八幡宮のお膝元。
本来なら,宇佐の神霊を勧請するのが筋なのに,
なぜか,勧請してまだ“26年”しか経っていない,新霊の石清水を勧請しようとしているのだ。

▼その事に対する結論はさておき,
(1)大分宮を遷したのに,なぜ名称が大分宮でなく,筥崎宮なのか。
(2)筥崎宮という呼称は,後のものであって,本来は[筥崎の大分宮]ではなかったのか。
Commented by 隠居 at 2012-07-25 12:07 x
(3)さらに,筥崎に遷したハズの大分宮が,今も穂波の旧社地?に鎮座しているのは,なぜか。
(4)大分宮が遷される以前の現在地は,何と呼ばれていたのだろうか。

・大分宮は神亀3年(726)の創建。社地は,かつて神功皇后が帰途立ち寄った場所だという。私は,筥松との関係上,大分宮も神功のお産と関係のある場所だと思っていた。

つまり,筥松の伝承は遷宮後,大分宮での伝承が,新たに附与されたと思っていたのである。
しかし,そうではなかった。
それは,大分宮の由緒を知らなかったからである。
Commented by 隠居 at 2012-07-25 12:12 x
(5)神功は糸島の宇美で応神を生んだ訳でもないのに,
なぜそこが宇美と呼ばれるのか。
・胞衣は当然お産をした場所に埋められ,事実粕屋の宇美八幡宮の近くに“胞衣ヶ浦”という,地名また故地が残っている。

・胞衣が,二ヶ所に別れて埋められたというのも不自然であり,また筥崎側の伝承は単に埋めたというだけで,その理由を説明する伝承を欠いている。

◎ここまで来ると,現在筥崎宮に伝わる社伝は,元々のものではなく,現在地に遷宮後,新たに整備されたものであったように思われるのだ。
Commented by 隠居 at 2012-07-25 12:15 x
・したがって,現在の社伝は,地名も含め,大分宮遷宮後の“造作”であり,境内地に,応神天皇の胞衣が埋められていようハズもない。

・海岸に目印の松を植えたというのだが,その松を世話する人々がいたというのだろうか。
そして,子々孫々に亘って,その伝承を持ち伝えていたというのだろうか。

筥崎宮の現在地に,胞衣の一部を筥に入れて埋めたというのが事実なら,最初からここが筥崎であり,何もことさら託宣を必要とすることもなかったように思われる。

しかし,託宣には確かに“筥崎”という地名が登場している。
Commented by 隠居 at 2012-07-25 12:20 x
700年もの間,ずっと伝承が続いていた,というのだろうか。

◎大分と宇美,そして筥崎,さらに石清水の関係が見えて来ないのだ。

『福岡県神社誌』に云う所の「筥崎に造営し」という表現は,『筥崎宮縁起』から出てきたものであろう。

現在地は古くから,そのように呼び習わされていたという事なのだろうか。

それならば,問題はないのかもしれない。

しかし,そうなると現在の社伝はおかしなものとなる。
Commented by 隠居 at 2012-07-25 12:41 x
貝原益軒は『筑前国続風土記』において,『延喜式神名帳』に筥崎宮が登場するから,
『筥崎宮縁起』で言われているよりも古くから,現在地に筥崎宮が鎮座していたのでは,という事を言っている。

現に,同社のホームページには,諸説ありという事を言っており,何に基づいたものか不明ながら,天平宝字3年(759)説を出している。
という事になると,筥松の伝承は,俄然信憑性を帯びてくるのだが,そうなると託宣に言う所は,いったい何なんだろう。

まだまだ,わからない点が多い。(ひとまず終了)
Commented by 隠居 at 2012-07-26 08:04 x
・おはよう,ございます。

▼先日来,あなたのブログの記事,特に“神功皇后”伝説を読みながら,ずっと,不思議な思いにとらわれています。

それは,神功は“200年”頃の人だというのに,実に生き生きとした伝承が豊富にある。

・しかし,それに引き換え,同時代の卑弥呼の事跡は,ほとんどわからない。

・しかも,神功は“大和”の人間だという事になっている。
いくら,魅力的で偉大な人間であろうとも,そんなに,余所者の事跡が,他の地方に,それこそ細かな足取りが解るように残るものだろうか。
Commented by 隠居 at 2012-07-26 08:08 x
▼古田武彦氏また古田会の人々によれば,それは香椎宮に都した九州王朝の女王の話が,神功の話にすり替えられたのでは,というのだが……。

そうなると,神功に擬せられた女性は,
“邪馬台国”として統一される以前の北部九州一円の長(有力者)だという事になるのだが,
いったい,何という名前だったのだろう。

そして,その彼女が朝鮮半島に足を延ばして,新羅他を配下に治め,
以後5世紀末時点もなお,配下に治めていた事は,
『宋書』倭国伝の有名な“倭王武の上表文”に見られる所である。
Commented by 隠居 at 2012-07-26 08:15 x
しかし,『宋書』倭国伝の話は九州倭国の武王の話であって,大和の王の話ではないのだ。

武王の上表文を見る限り,朝鮮半島(※高句麗を除く)を支配下においていた事について,大和の王から九州の王に支配権が移ったと見られるような事は,何も書かれていない。

そして,たとえば『隋書』倭国伝を見ても,九州倭国或いは日本列島についての中国側の認識は,古来一貫している。

日本の古代史研究にあっては,まず何よりも,その一点をきちんと押さえておく必要がある。
Commented by 隠居 at 2012-07-26 08:22 x
▼ということになると,当然の事ながら,
神功の三韓征伐と言われているものも,九州の王の事績という事になるのだ。

・そうなると,たとえば宇美で生まれた応神天皇と言われる人物も,いきおい九州王朝内の人物とならざるを得ない。

・誠に不思議な事だが,3世紀に生きた人間が,
急に現代に甦ったような気がするのだ。

◎あなたは,以上のような事を,どのように,お考えになりますか。
Commented by lunabura at 2012-07-26 10:14
そうですね。これは一言では返答できないのですが、弥生時代に列島は30カ国ほどあったというのですから、倭国や日本国の原型が存在したと考えられるのではないでしょうか。
最初に隠居さんが紹介された、歴史書の書き方がそうですよね。
神功皇后を訳していると、当時の都は下関にあって、香椎に遷都。その途中で仲哀天皇の崩御。そして、その崩御に関わった羽白熊鷲への報復。そして、子供の成長。までは良かったのですが、いきなり近畿地方へ戦いに行く動機が分からずに困った思い出があります。
下関を制圧すれば十分だったはずですから。
神功皇后は高良山で再婚した話もあります。
神功皇后の子は誉田天皇であって、応神天皇は100年後の人で、そこにねつ造があると、仮説を立てています。
Commented by 隠居 at 2012-07-26 10:40 x
・あらためて,おはようございます。

▼朝方のコメントで,“邪馬台国”統一以前のと書きましたが,これは私のハヤトチリですね。

・卑弥呼は,既に2世紀末に邪馬台国の女王として,共立されていますから,まさに“神功皇后”伝説の渦中の人。

▼しかし,穴戸の豊浦に皇居を置いたという事の意味が,理解出来ません。

ただ,現在もそうですが,山口県の商圏は広島県を中心とした中国地方ではなくて,九州なのです。
これは,何か古代の遺制だと思われます。
Commented by lunabura at 2012-07-26 11:03
おはようございます。
卑弥呼の没年は248年頃となっているので、最初のコメントで大丈夫だと思いますが。
穴門の豊浦宮は日本書紀にそう書いてあるので、そうなんだと思っています。
(北九州に行くと、やはりそういう伝承がありますが)
山口県の商圏のお話は興味深いですね。
現代でも、1000年以上前の境界の意識というものがあちこちに残っていて、それが市町村の合併などに影響を与えているのが面白いです。
Commented by 隠居 at 2012-07-26 11:07 x
○なお,疑問。

・山口県に行ってバスに乗った時の事,運転席の上に吊されている御守りが,地元の神社のものでなく,なぜか宮地嶽神社であったり,宗像大社であったりするのです。(※他は未確認。)
県東部,また広島県境に近い所ではどうなっているか,確認していませんが,このあり方は考察に値します。
・なお,一般車両ではそのような事はないようです。

◎バス会社(複数)の運転手に訊ねてみましたが,考えた事もなかったという訳で,残念ながらお答えはありませんでした。

私は,それなりの答えを持っています。
Commented by 隠居 at 2012-07-27 20:20 x
【補足】
・バス等の交通機関の車両に提げてある御守りは,
境界の問題というよりも,“縄張り”の問題と言った方が,いいのかもしれません。

渡船等も含め,古代からの利権のようなものが,脈々と受け継がれているのではと,思っています。

・元々,それらは古代の氏族政権下にあって,神社と結びつき,現在は香具師に受け継がれているのだと思われます。

・同じ公共交通機関でも,列車の場合は,御守りを提げていないという事が,何らかの参考になろうかと思います。
Commented by 隠居 at 2012-07-27 20:26 x
・鉄道は,明治以降“新た”に国により開発されたもので,
以後払い下げ等により,個人の介入する余地はあるものの,

古い利権を侵すという事がなかったことが,大きく関係しているのではと思われます。

・船の場合は,主要な渡船は早くに国有化され,利権が異なるのかもしれません。

・この利権の問題は,考えれば奥が深く,なかなか一筋縄では行きません。しかし,興味深い問題です。

・一言で言えば,“許認可”。公私或いは,公と地域の利権の対立の問題なのだと思われます。
Commented by 隠居 at 2012-07-27 20:55 x
▼現在,行われている赤ん坊の“お宮参り”や七五三といったものも,子どもの健やかな生長を願ってなどと言われていますが,元々は,まったく意味が異なっていたのではと,思われます。

・本来は“氏神”ですから,その氏を統率する有力者に挨拶(顔見せ)する事に意味があり,成長を願うなどという事は,神社の社会におけるあり方が,根本的に変わってしまった,
神仏混淆時代の寺請制度を経て,廃仏毀釈に至って以後の,
神社側の苦しまぎれのこじつけなのだと思われます(笑)。

ここまで来ると,“御利益”とは何か,という事を考えざるをえません。
Commented by lunabura at 2012-07-27 22:33
凍てつく極寒の日でも、早朝から神々に感謝の祈りを捧げ、凡夫の願いを聞き届けるように祈って下さる神社の方々、ありがとうございます。
広い境内を草の生えぬよう、落ち葉がないように日々清浄に努め、あらゆる人々を受け入れて、日本を浄化し続けてくださる神社の関係者の方々に心から感謝せずにはいられません。
Commented by 天の邪鬼な隠居 at 2012-07-28 07:38 x
・おはよう,ございます。

あなた様が神社界に対して,並々ならぬ信頼と尊敬の念を抱かれている事は,十分理解出来ます。

しかし,私が少しばかり神社界に対して不審を抱くようになったのは,

(1)或る著名な神社における関係者の対応,そして,
(2)古田武彦氏の著作を通してであり,さらには,
(3)知り合いが務めた神職養成講習会における,或るエピソード
を通しての事でした。

◆知り合いは,その講習会で『古事記』の講義を担当されたとのこと。
Commented by 天の邪鬼な隠居 at 2012-07-28 07:52 x
・限られた時間で,どこまで進めるかわからないのに,冒頭から話して行っては,最後まで終わらないだろう。

という訳で,各自が神職となって,参拝者ほかからお尋ねがあった時,なんとか,自分の力で答えられるよう,

(1)『古事記』そのものについての講義ではなく,
(2)『古事記』を通しての講義を,なさったとの事。

・こういった事は,本来『古事記』全体がわからなければ,出来ない事であります。

◆担当されたのは,直階(チョッカイ)という神職の初歩の階級。
Commented by 天の邪鬼な隠居 at 2012-07-28 07:59 x
・受講者は,下は高校生から,そして最高齢は大正生まれという,老若男女20数名。

・まず,講義の初めに紙を配り,
(1)各自が奉仕している,或いは今後奉仕する予定の神社名と
(2)御祭神名を書かせた所,

(2)については,誰一人として正確に,書けなかったというのです。(※もちろん,主祭神。)

・そこで,どなたをお祀りしているかわからないような状況で,日々参拝者に接しているという事は,
御祭神また参拝者に対して,大変失礼であるという事で,講義の冒頭“説教”をしたというのです。
Commented by 天の邪鬼な隠居 at 2012-07-28 08:07 x
・その話を聞いて,いかにも知り合いらしいな,と思うと同時に,
神職養成講習会に大変ふさわしい措置ではなかったかと,感心したものです。

・しかし,知り合いが少なからずショックを受けたのは,
神職の妻であったり,既に神社に奉仕している者が,何名もいたという現実だったのです。

・この結果は,現在の神社界のあり方。つまり,どなたをお祀りしているかわからない状況で,日々奉仕し,参拝者に接しているという事で,
まずは,自らの脚下に対する認識を,しっかりさせるねらいがあった由。
Commented by 天の邪鬼な隠居 at 2012-07-28 08:11 x
◆以上のような状況は,
古伝を鵜呑みにして,自らの頭で考えないという“あなた任せ”の状況が,
神社界に蔓延しているという事を,意味します。

・しかし,信仰というのは,そもそも“疑わない”という事が,前提なのです。」
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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