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名島神社(6)倭国の将士たちはここで名乗りを挙げた


名島神社(6)
倭国の将士たちはここで名乗りを挙げた

これまでは名島神社については聞き語りを中心に書きましたが、
今回は福岡県神社誌を見て行きたいと思います。
名島神社へのアプローチは道路や団地があって分かりにくいです。
帆柱石(ほばしらいし)」の案内板を目印にいくとこのような海に出ます。
ここは既に神社の境内です。すぐそばに有料駐車場もあります。

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ここには荒磯があって、親水公園があります。

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そして波打ち際に「帆柱石」(ほばしらいし)があります。
神功皇后の船の帆柱が化石になったと伝えられています。
アップしてみましょう・

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帆柱石は木の化石です。説明板を見てみましょう。(一部変更)
名島檣石(なじまほばしらいし)
カシ属の幹の化石(珪化木)で、円柱状の石片が連続しています。名島の丘陵を形成した第三世紀の地層中に露出したもので、時代は漸新世前期(約3700万年前)に属すると考えられています。
香椎宮の社伝によれば、神功皇后の三韓出兵の時に用いた船の帆柱が化石になったといい、近くの「まないた石」や「縁の石」の大石とともに伝えを偲ばせています。
     2000年3月
さすがに伝承は大風呂敷でしたが、神功皇后と結びつけられたのには訳がありました。

祭神 湍津姫命、田心姫命、市杵島姫命
由緒 宗像三神神功皇后の勧請で、その後社は旧藩主より寄附。明治5年11月3日村社に被定。
社説に曰く、神功皇后の御征韓で出発の祭、ここで宗像三女神に三韓服従のことを祈願されて、従軍将士の氏名を名乗らせ、(元黒崎と言ったのをこの時から名島という称号になった。)乗船されて、凱旋の帰途にここに報賽のため、宗像三女神を奉斎されたのが起源である。その時、供奉の官人を御社創立のために残して社務に当たらせたという

中世時代、宗像神を仏名に変えて弁財天と称したが、明治維新の際に名島神社に戻った。(中略)
境内には神功皇后が征韓された時の帆柱が石になったと言い伝える檣石(ほばしらいし)がある。(福岡県神社誌)
名島神社は香椎宮を出港した船団の重臣たちが名乗りを挙げたという事が始まりでした。
その時、神功皇后が宗像三女神を祀りました。
この伝承が大きくなって神功皇后の船の帆柱が石になったという話になりました。

今回注目したいのは従軍将士の氏名を名乗らせたという事と
祭神が宗像三女神だという事です。

前回「筥崎宮(2)」で、香椎宮の神幸祭は
神功皇后が率いる倭国軍の出陣を模したものだと紹介しましたが、
香椎宮を出ると名島は志賀島に向かう航路上に当たります。

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この時、唐津から洞海湾まで、玄界灘の各地の港からも
一斉に軍船団が壱岐の島に向けて出港したことでしょう。

その大事な出陣の儀式が重臣たちの名乗りで、その時に神功皇后は宗像三女神を祀りました。
ただ宮司さんによると、祭神はもともと豊玉彦だったという事です。
確かに名島神社と志賀海神社の祭祀圏を考えると
同じように「君が代」を伝えている点など不即不離の関係です。

豊玉彦は那の国の王であるとも伝えています。
そうすると、名乗りを上げた対象は豊玉彦で、
宗像三女神はこの時合祀したのかも知れないなと考えました。

神功皇后の乗る龍船は安曇磯良が舵取りをしています。
だから彼の祖である豊玉彦に敬意を払ったのだと思うのです。

宗像三女神を信仰していたのは筑後川から北上してきた水沼族だと赤司八幡神社で推測しました。
田油津姫攻撃の時からずっと側で仕えてくれて、その長たる国乳別命(くにちわけ)も乗船している訳ですから、
水沼族への報恩のしるしに、三女神を祀る事で新たな拠点を保障したものではないかと考えました。

さらに、凱旋後に社務をする人を置いて行ったということですが、
この名島の沖の小島に神功皇后は戦利品の鉄の武器を隠したという伝承があります。
今は陸地になって面影もありませんが、
戦後の人々はそこに鉄を拾いに行っては現金化していたそうです。
鋌鉄(ていてつー鉄の延べ板)の可能性もあるなと思いました。
ですから社務というのは鉄器の管理者でもあったのではないでしょうか。

さて、それから千数百年経って、豊臣秀吉がやって来ました。
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神殿です。
秀吉公か来た時にはすでにこの社殿は現在地に降ろされていました。
もともと神功が峯という頂上部に置かれていたそうです。

豊臣秀吉は神功皇后の跡をなぞっている気配があると以前書きましたが、
この神社には「御座所」(ござしょ)を設けて九州観察の中心としたとあります。
それはこの地が九州を観察するのにふさわしい地形だったからです。

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境内の左からはその頂上へと向かう遊歩道が出来ています。
そこを上って頂上の景観を見てみましょう。

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臥龍桜。

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名島神社は桜の名所です。

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秀吉公は淀姫を連れてここに宿泊しました。若杉山や宝満山などが遠くに見えています。
手前の丘陵地帯の麓には弥生銀座がありますよ!
そこに那の国の根拠地があると思われます。淀姫もこの景色を見たのですね。

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これは左の方。立花山が三上山に見えています。その手前に香椎宮があります。
筑紫平野のかなりの部分を目視できます。海も見えた事でしょう。

黒田長政公も見た景色です。
黒田長政がここに赴任して来て城をすぐに移転させたのは、
名島神社にある古い秘密を知ったからだろうと思っています。

その秘密はブログには書けないのですが、
黒田長政がキリシタン大名だったという事が関係していると思います。
神社の上に城があるのが憚られたのでしょう。

だから、長政公が名島城を廃城にした心を汲み取れば
この公園に城を作る事は問題があると思います。
名島神社がこの場所に戻るのが本筋だと思っているんですよ。






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by lunabura | 2012-03-15 13:54 | 名島神社・福岡市 | Trackback | Comments(4)
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Commented by 住兵衛 at 2012-03-16 13:19 x
大勢の日本史ファンのために、あなたの記事の
トラックバックを、ぜひお願いします!
オープン・ジャンル「日本史同好会」
~日本史を100倍楽しもう!~
http://history.blogmura.com/tb_entry108861.html
Commented by lunabura at 2012-03-16 13:45
住兵衛さん、ようこそ。
トラックバックのことがよく分からないんです。(・.・;)
ちょっと勉強します。
ありがとうございます。
Commented by csaオアシス at 2012-03-16 19:56 x
ああ!こんなところに、宗像三女神をお祀りした神社があったのですね!
水沼一族のこともありますし、玄界灘を渡るためには、宗像一族の助けが必要不可欠だったのでしょうね。。


Commented by lunabura at 2012-03-17 09:20
そうですね。名島神社が宗像三女神を祭神としているのが最初は不自然に思えたのですが、記事に書いたとおり、水沼族の拠点として保障したとすると、ストーリーが上手く行くのです。
凱旋後の鉄器の管理も、国乳別命になら任せられますし。

このあと、水沼族が東の方の湊を開発して行ったとすれば、宗像まで届きます。
白村江の時、安曇族が壊滅状態になって、宗像族が朝鮮半島へのルートを補って行ったと考えると、これまた上手くまとまるのです。
この時、豊玉彦への信仰は失われたのではないかと。
だから名島神社は二重構造になっているのではないかと思いました。
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