2012年 03月 20日
宗像と出雲
宗像神社の辺津宮の千木は垂直だとコメントで教えていただいたので、在庫の写真で調べてみました。
おおお。
本当に垂直です。
と言う事は祭神は男神を示すという事になるのですが…。
三女神はどうなる?
前回の楯崎神社の祭神は大己貴命と少彦名神でしたが、
宗像神社とは直線で約7キロ。
大己貴命は宗像大神の姉妹と結婚したとなっているので、
ここにはその足跡が残っている可能性は十分にありますね。
それと関係あるのかどうか。
今日は朝から「出雲」が気になって写真を撮り直したいと思っていたんです。
「出雲」…福岡県の筑穂町にある地名です。
これがその信号ですが、これだけではどこか分からないので、
今日撮り直して来ました。
この信号は王塚古墳に近いので、王塚古墳館に地名の由来を尋ねに行ったのですが、今日は分からずじまい。
福岡の古代の出雲。
その姿は明らかになってくれるのでしょうか。
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福岡県に出雲。山口県にも出雲あったんであんまり深く考えた事も無かったので調べてみましたよ。
勝手に解釈してみたんで確証はありませんが(>_<)
今の土師老松神社(古名は土師宮)に伝承されているものですが、社の記録に依れば遠く神代の昔 大己貴命 少彦名命と戮力一心、天下を経営給いし折り吾西海下り蹕を此の土師の地に暫く駐め給いしと云う。後に人皇11代垂仁天皇の御宇、出雲の國の造 野見宿禰埴輪を造りて殉死の者に易ゆるの功を賞して土師臣の姓を賜い又諸国に於て鍛地を賜うや 当庄をも其の一つに加え宿禰に賜う。されば出雲より 土師連来たりて当庄を領し 出雲杵築の大社に鎮座の大国主命(大己貴命)を神代の時 暫く蹕を駐め給いし地に勧請して土師宮と称し齊き祀る これ当社の濫觴なりと。
スマホのマップで調べましたが、近所範囲に『老松神社』の多い事。この土師老松神社もそうですが管公関係(天満宮)が多いんですよね。でも土師一門だからおかしくは無いわけで。
土師氏・菅原氏のご先祖、野見宿禰さんが出雲国造ってのが初耳でした。
土師老松神社、ありがとうございます。すでに取材はしているのですが、その意味がよく掴めずにいました。これが中心的なお宮なのですね。
老松神社の数は本当に多いですね。大分宮がどうしてあそこにあるのか、調べていると、老松神社ばかり。冶金の神という事で、菅公の存在と共に、もう少しイメージがつかめたらいいのになと思っています。
筑穂町は飯塚市になったのですか?
歴史資料館とかあるのかな…。
その辺りから調べて行かないと、と思っています。
これからもよろしくお願いしますね。
本当に驚いています。
宮司さんに訪ねても答えがなかったのなら、深い意味があるのでしょう。
これまでの宗像宮観が完全にくつがえる話ですが、これで深層に下りて行けるような気がしてきました。
教えて下さってありがとうございます。
調べました(爆)ほう、建御名方神がそうらしいんですか?ん?相撲も神代でとってたの?相撲の始まりは管公御先祖の野見宿禰で(>_<)
きょ、共通点が相撲?!こんな低レベルでスミマセン(ToT)
この辺は飯塚市民でもあいまいなんですよ。
桂川町だったり飯塚市だったりで。
菅公が鉄と関わっていた事を発見した場所が「出目・袴着天満宮」で、そこに詳しく書いているので、読んでみてください。
実は相撲の話も、製鉄の技術比べを暗喩しているという話があります。
これらはまだ誰も知らないので、また折を見て書きます。
出雲は桂川町に尋ねると、筑穂だと言っているので、飯塚市という事ですかね。「出雲百穴」を探しているんです。
菅公と老松神社が密接ですが、製鉄がされなくなると、祭神があいまいになっていく傾向があります。
葛築目とか田油津姫とか、女王たちが殺された旧ヤマト郡では、老松神社に埋葬したりしているので、旧ヤマト郡は製鉄の民だと想像しています。
宗像大社は、【道主貴】ですよね?
今井似閑の【萬葉緯】の尾張国風土記に
『玉置山。鹿と狐を出だす。神あり。道主命(みちぬしのみこと)と号う。』
という記載があります。
【貴】【命】も同じような意味の尊称なので、【道主貴】も【道主命】も同じ神様でしょう。
ここに記載されている玉置山は、奈良県吉野郡十津川村にある山だと思います。
この玉置山には、玉置神社があり、本殿の御祭神は、国常立尊・伊弉諾尊・伊弉册尊・天照大神・神日本磐余彦尊です。
私は、国常立尊=須佐之男命だと考えています。
もし、【道主貴】が国常立尊であるならば、国常立尊=須佐之男命が宗像大社に祀られている、もしくは祀られていた可能性があるのではないでしょうか?
そのため、辺津宮の千木は外削ぎなのではないかと…。
話が飛躍してますかね(^^;)?
通りすがりで失礼致しましたm(_ _)m
御在神の顔ぶれ、そうそうたるものですね。
辺津宮の祭神=スサノオ説もなかなか魅力的です。
宗像大社の元宮の六嶽神社は鞍手郡にあって、宗像市の南にあり、かつてはそこまで宗像だったそうです。
その鞍手郡の中心的な宮である古物神社(ふるもの)には、「スサノオが通りかかった」という伝承があるのを思い出しました。
これはなかなか面白いテーマですね。
これからも、ちょくちょくお話聞かせてください。 ^^
スサノオと宗像三女神は切っても切れない間柄なので、そういう考えがあっても良いかも…と勝手に思っております。
もしくは、もともと宗像大社には男神がいまして(誰かは知りませんが)、神勅を盾に三姉妹が「ちょっと、そこ退いてよ!!」的な感じで来たとか。
いくら男神といえども、女三人には勝てなかった…みたいな。
全ては、私の妄想ですm(_ _)m
実は私、宮若市(旧・鞍手郡宮田町)出身でして、以前『天照宮』の記事で、現在神社を管理されているであろう方についてコメントさせていただいた者です。
るなさんの記事を拝見するまで、地元周辺に古代ロマンが存在するとは露知らず、勿体ない日々を送っていたのだなぁ~と思います。
ちなみに六ヶ岳は、小学校の遠足を含め登るチャンスが何度かあったのですが、その度に何故か体調を崩したり、前日に事故ったりして、未だ登れていません。
嫌われているんですかね…(- -;)
元旦の日の出を見る為に登山口を鞍手の友達に確認してねと頼んでいたけど、していなかったから、夜中に登山口が分からず、南の方まで小一時間迂回してから上ったら、日の出に間に合わなかった… (・.・;)
そんな事を思い出しました。
とても見晴らしの良い山です。
今ならネットでも頂上の様子が見られますね。
宮若市はやはりすごいです。でも、地元のパンフレットとかには神社が載っていないので、遺跡と神社と物部の伝承を組み合わせたら、いきいきとした古代散歩が出来るのになと思っています。
遠賀川流域全体の人々がとても古い歴史を忘れ去っているようですね。
もったいないです。
メールありがとうございます。
返信したのですが、エラーで戻ってくるので、こちらに書いています。
すごくありがたい話をありがとうございます。
続き待ってますね。 るな
でも宮地獄のしめ縄は、剛力横綱タイプですよね。
香椎宮のは一本縄の品がいいけどひょろひょろ。諏訪も出雲も綱タイプ。明治神宮は縄タイプ。それで出雲系が綱で、ヤマト系が縄と思ってました。
苦笑したのは、ためらいがちの綱タイプの宗像大社でした。バリバリの出雲系と思ったのに。しかしこれは資金力の差であって、綱タイプですよね。
私は単純な視覚人間ですので、ここに神功皇后が祀られてるって、信じられません。どういういきさつでしょうね。
これからは、注目したいと思います ♪
で、神功皇后が祀られている、ここ、とは何処の話をされているのか?
(もしかしたら、他の記事からの続きで書かれたのかな?)
よかったら、教えてください。
ちなみに大神神社のとこを読んでたら、ここはもともと出雲系の神社だったのを、神功皇后が参って入れ替わったようで。宮地嶽神社も元々は出雲系のお宮だったのに、神社側が折れたんかとおもいました。でもしめ縄だけはヤマトに譲らんわい!ってとこだったのかしらと。
宮司さんの話では、「安曇と磐井」の関係のお宮だそうです。
そこに八幡信仰が入ったのではということでした。
ただ、もともと神功皇后が御神体山で祭祀されたので、神功皇后と地主神が祀られています。
でも、縄文時代には大国主が入植した土地かも知れませんね。
出雲から舟でやってきて、御柱のお祭りになったのが諏訪の大社ってTVできいて、海のないとこに・・と驚きました。高い柱でできてた古代の出雲大社の柱の名残とか。昔見たTVなんで、確かじゃないけど。やっぱり大和政権に追われてきたんでしょうか?
ルナさんの3年前の記事大変参考になりました。高宮祭場の雰囲気は大好きです。
鈴鉄って初めて聞いたので、よくわかりません。金属文明の勉強しなきゃ、刀工の子孫としては♪
高宮の祭は日が暮れてから始まりますが、神社に近づくのが難しくなったらしいので、早い時間から行かれる事をお勧めします。(^-^)
早速、「弥生時代」を見ました。
「津屋崎は鉄の集散地で、この地を巡って戦いがあったのでは」という一文が見つけられませんでした。
よかったら、検索先を詳しく教えていただけませんか?
スズ鉄については、サイドバーの「◆古代鉄・スズ鉄」に少し書いています。
よかったら見て下さい。
鉄器のところ。
「つまり玄界灘沿岸地域が鉄資源入手ルートを独占していたと推定されている。それゆえに、鉄資源の入手ルートの支配権を巡って戦争が起こったのではないかと考えられているが、今はまだ考古学的に立証することができない。戦争が起こったと仮定すれば、近畿地方の大和勢力を中心に、広域の政治連合、例えば邪馬台国連合のような同盟ができあがっていたことが想定されている。」
鉄は初期は大陸から運ばれてきてて、自前で製鉄されたのは、ちょっとあとだそうだけど。その交易と生産の要を大和政権は欲しかったんじゃないですか?新羅征伐って名目だったのでは(←これ年表がさっぱりわかんない私の一大推論=妄想)
ありがとうございます。
ところで、引用された部分を読むと、いかにも邪馬台国が近畿にあるように書かれていますね。
思い込みが甚だしく、客観的に書いているふりをして、ひたすら邪馬台国を近畿に持って行きたい我がぷんぷんしますね。(辛口 (^-^))
邪馬台国がどっちかは私は知らなくて、論争の観点を見るだけの傍聴者なんです。
だから、こんな、我田引水の文を見ると、もう少し、まともな論にしてねと…お願いしたくなります。
寡聞ながら、考古学ではスズ鉄の話をしないのではないかと思います。
鉄鉱石とか、砂鉄だけしか話題にならないような…。
国東の縄文製鉄遺跡も、いつのまにか縄文の字を消されていますもんね。
これは、新羅征伐北九州遠征の時ですか?
この時神功皇后は宗像大社にも行ってるんですかね。
だとしたら、かなり勇気がいったのではないかと、思ってしまうんですが。
当時、宗像大社はまだ存在していなかったのではないでしょうか。
当時三女神を斎き祀るのは水沼族でした。
水沼は景行天皇の皇子、国乳別命に妃を出しています。
詳しくは、赤司八幡神社と大善寺玉垂宮と弓頭神社を見てくださいね。
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