2012年 03月 28日
熊野神社・人々が総出で神功皇后を迎えた・香坂王謀叛
熊野神社
北九州市八幡西区下上津役元町
人々が総出で神功皇后を迎えた
香坂王謀叛
熊野神社へのナビは急な坂道を登らせ、狭い狭い道をぐるぐると廻らせて
神社の境内横の公園に導きました。

後で確認すると、写真の「下上津役2丁目」(しもこうじゃく)信号の先から
二度右折すると、もっと楽に駐車場に辿りつけるのが分かりました。

一の鳥居からの参道はこのように、車では進入できません。

参道を歩くと、この御神木から空気が変わりました。

いくつか鳥居をくぐって境内に辿り着きます。

落ち葉を急ぐ木々と緑の葉をつけた木々が混在する季節の変わり目です。
植物相がとても豊かな境内です。

御祭神は伊弉冊尊(いざなみ)・速玉男命(はやたまお)・事解男命(ことさかお)
です。
神功皇后の足跡で熊野神社は初めてですね。
速玉男命はイザナミ神とセットの時にはイザナギ尊とするようです。
前にもちょっと書いたのですが、友人が和歌山県の熊野神社に参拝した時、
「英彦山が元宮ですよ。御苦労さまです。」と言われたという事なので、
神功皇后の時代はその下流の遠賀川流域の各地に伝わる
イザナギ・イザナミ祭祀について考える時に参考になる興味深い神社だと思いました。
熊野もまた海人族なので、ここにも拠点を持っていたのかも知れません。
神社に張られていた由緒書きにはここに来ないと分からない伝承が書かれていました。
熊野神社鎮座跡(下上津役1丁目15番1号)この伝承にはいくつかの情報が書かれています。
伝説によればこの地は、神功皇后が三韓を征伐し、帰朝の途中、群臣を率いて当駅に入られたとき、郡首をはじめ庶民まで迎えたので、お迎いと名付けたという。
時に、皇后は二皇子謀反の事を聞き、応神天皇を紀伊の国に潜行させ、この地に祭壇を設けて紀伊国鎮座の熊野の大神を祭り、皇子の安泰を祈った。
昔は社殿を建てて祭り、神田20町余あって、神事も最も厳重であったが、多くの星霜と数度の兵火にかかって、祭事もいつしか怠り神田もなく現在に至る。
この鎮座跡より上上津役字馬場の熊野神社は天正年中(1573~1591)に竹尾の城主左衛門太夫鎮里が遷座させた。
下上津役字上方の熊野神社は延宝4年(1675)人民により遷座された。
まずこの神社は遷座していて、もともと下上津役(しもこうじゃく)にあったという事です。
そしてそこは駅があり、神功皇后がやって来ると、郡首も庶民も出迎えたという事です。
これについて考えると、神功皇后が北九州に来たのはこれで3度目。
最初は皇祖の祭祀と造船の手配のためでした。
それから困難な戦いに全部勝利して皇子まで出産して戻って来たのですから、
人々の歓迎ぶりは相当のものだったと思われます。
そこが駅だったからでしょうか、香坂王と忍熊王の謀叛の情報がいち速く届き、
これからの戦略が練られたのかも知れません。
その後のようすを日本書紀はこう書いています。
この時、神功皇后は忍熊王が軍勢を起こして待っていると聞いて、武内宿禰に命じて皇子を抱かせ、迂回して南海に出て紀伊水門に停泊させました。皇后の船はまっすぐ難波を目指しました。一歳ぐらいの皇子を竹内宿禰に預けて紀伊水門に潜行させたというのは、
この地の熊野水軍とよくよく話し合った結果の戦略だったのかも知れません。
練りに練って、正攻法を選んだ彼女は自分の命を懸けて戦って
皇子の命を守ろうとしました。
可愛い盛りの皇子。
この戦いに負けると一生、この子を抱く事はできない。
乳母がいても、きっと皇子は自分を求めて泣くだろう。
神さま。かならず皇子を守って下さい。
必ず生きてこの腕に抱かせて下さい。
そう祈りながら祭壇を設けて、太母であるイザナミ神と熊野水軍の守護神たちを祀ったのでしょう。
皇子の為ならどんな事も耐える。何でもする。
そんな決意が聞こえて来そうです。

境内の裏手から。

地図 熊野神社
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遠賀に、帰ってから、ぜひ八幡の熊野神社、近いので行ってみます。
バラバラのピースが繋がって行くのは、知的な興奮を覚えますね。
この上津役に駅があり、そちらが元宮だったようです。
もし何と言う駅なのか、とか、元宮に祠ぐらい残っているのかと分かったら教えてください。

昭和13年頃に長皇子と各・宮家や外国特使などと
在日陸軍・海軍・空軍の武官を
河内守様や三河守様に愛宕守様と葛野守様など
桃園親王家と三分家(陣屋/源氏)が招ての
古式道理の朗々たる若宮様.ご誕生の礼式と
太子宣下の礼式と
御祭祀様・財産・資産御相続(祭祀王践ソ)の礼式と
葛野守践ソの礼式や長皇子から菊花・桐花大綬伝達式や
各・宮家や外国特使などと謁見の礼式が
厳かに執り行れたのを御存知ですか。