2012年 03月 30日
旗頭神社・ 竹内宿禰の陣営地だった
旗頭神社
はたがしら
北九州市八幡西区陣原
竹内宿禰の陣営地だった

北九州市を通る国道三号線は大変交通量が多いのですが、
その道沿いに旗頭神社はありました。

地名が陣原(じんのはる)という事で、戦国時代の頃の陣営だろうかと思っていたのですが、
これがなんと竹内宿禰の陣営跡というので、とても驚きました。
珍しく石段が無く、平地に建っています。車の喧噪は全く聞こえません。

御祭神は武内宿禰 志賀三神 住吉三神 大国主命 事代主命 麻生興春神霊です。
この宮は主祭神が竹内宿禰でした。加えて志賀・住吉・出雲の神々。
ずっと共に戦ってきた海人族たちの神々が祀られていました。
これで内の大臣(うちのおとど・竹内宿禰)を総大将とした
水軍の一大拠点がここにあった事が伺えます。

それほどの大軍勢が駐屯できるのだろうかと境内の裏に廻るとけっこう広いです。
由緒書きを読んでみましょう。(一部改変)
旗頭神社由緒この由緒書きでは竹内宿禰が陣営を構えたのは応神天皇の時代になっています。
創建 大永2年(1523)
祭神 武内宿禰
志賀三神 住吉三神 大国主命 事代主命
麻生興春神霊
二千余年の昔、応神天皇は武内宿禰に筑紫路の人民視察を命ぜられた。命を奏した武内宿禰が洞(くき)の海を過ぎるとき、西北の方に怪しい声がするのでこの地に陣を構え警戒を厳にした。陣原(じんのはる)の地名はこれによると言い伝えられている。
明応・永正の頃(1492~1520)黒崎花尾の城主として遠賀一円を領有していた麻生興春が花尾城から山鹿城に移るとき陣原の里でしばし憩い、この亀山の地は殊の外眺めがよく花尾の本城も望むことができる。没後はこの地に葬るよう家臣に言い遺して旗を指し立てて標(しるし)とした。大永2年(1523)興春の遺志によって旗指社が創建された。
慶長11年(1606)黒崎城山の城主井上之房は敬神の念が篤く特に武内宿禰の徳を敬慕していたので社殿の再興が行われ、之房が住いを陣原に移す頃、旗頭社と呼ばれ、陣原の産土の社として広く尊崇された。
その後、長年の風雪と共に老朽も加わったので幾度か加修改築が行われたが文久2年(1862)の社殿造営で今日に至った。
応神天皇は神功皇后の皇子です。
前回の熊野神社で皇子としばらく別れる決意をした神功皇后ですが、
その皇子を預けたのが竹内宿禰でした。
皇后の亡きあとも竹内宿禰は生き続け、筑紫の国々の視察を命ぜられて、
再び筑紫に戻って来た時に、ここに陣営が継続していたとすると
ストーリーがつながってきます。
武内宿禰はこの時、若松恵比須神社でも松を植えたと伝えられています。
伝承をつなぐと古代の交通の要衝や陣営地などがだんだん姿を表して来ました。
さらにこの陣営に関する別の伝承が『福岡県神社誌』に書かれています。
社伝にいわく、神功皇后が西夷を討とうと武内大臣を施主にして新羅に至った。新羅の王は戦わないで降伏した。高句麗・百済の二王も畏れて和平を申し入れた。これを見ると神功皇后の時代に既にここに陣営を構えていたのが分かります。
皇后は凱旋の時にここで陣を構えた武内宿禰の軍令が厳整としていたので、「いくさばる」と称した。その後、社廟を建てて旗頭神社と名が付いたのが当社の起源である。
ここは軍事的に重要な所でした。
それから1000年以上も経って城主・麻生興春がここに来た時
その眺望のよさに自分の墓所として選び旗指社となりました。
最初に石段がなくて平地だと書きましたが、
全体が高地にあって眺望が確保された立地だったのがこれで分かります。
江戸時代になって城主・井上之房が武内宿禰を敬慕していて
住いをここに移して旗頭社となりました。
武内宿禰の活躍は武将たちの崇敬の的だったのですね。

神殿です。こんな身近に武内宿禰が祀られていたとは。

周囲に古木が残っていて、とても大きいです。

梅の木かなあと思ったけど、何の木かなあ。

裏の方に出るとタギツ宮の鳥居がありました。宗像の姫神です。
奥津神社(タギツ島比売命、伊須岐依姫命、大己貴命)です。
これはかなり古い組み合わせのようですね。
タギツ姫と大己貴命は楯崎神社によると夫婦神です。
伊須岐依姫はイスケヨリ姫でしょうか。
そうだとすると神武天皇の大后で、三輪と三島の通婚で生まれた姫です。
鉄の民の姫です。
周囲の地名を眺めると、穴生に鉄竜、鉄王。これはすごい。
考古学的にたたら跡の出土を調べる必要がありますね。
(誰か八幡の古代製鉄を調べていないかな…。)

境内にある稲荷神社と椋の木です。物部氏の鉄の暗号です。
う~む。このタギツ姫の宗像族が加わると、志賀安曇族・住吉族・出雲族+宗像族という
そうそうたる海人族たちの顔ぶれとなります。
これに前回の熊野神社の熊野族を加えると五大海人族になる。
(あれ?熊鰐さんの熊族が熊野族だ…。)
武内宿禰はこの倭国の水軍をすべて掌握していたんだ。なかなかのものだ。
考えるに、この近くに古代製鉄所があって、
それを守る陣営がもともと、ここにあったのではないでしょうか。
神功皇后と朝廷の百官が北九州に滞在中に海軍はここに拠点を置いた訳です。
皇后の滞在が長引いたのは、香坂王との戦いの為の準備に加えて、
皇后の乗る船の帆柱が折れて、修理をしなくてはならなくなったという事情が絡んでいました。
その修理所が中宿八幡宮(なかやど)です。次回はそこへ行きましょう。
地図 旗頭神社
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国道3号線のすぐ横だったので、以前から知っていたのですが
ふと気になって、境内に入らせてもらい、由緒書きを読んで、”旗頭神社”ということが分かりました。
それにしても、裏のほうに、宗像の姫神がお祀りされている
タギツ宮があったというのが、びっくり!^^;
タギツ宮の鳥居は正面に向かって右にありました。写真を見ると奥に稲荷の赤い鳥居が見えています。
祠があったかどうか記憶がないのですが、この鳥居を撮っておいたお蔭で、祭神が調べられました。
合祀されたのか、本来の古いものか興味深いですね。








