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住吉神社(遠賀)・神功皇后は住吉大神を祀って松を植えた


住吉神社
遠賀郡遠賀町若松
神功皇后は住吉大神を祀って松を植えた 

遠賀川。前回の中間市の唐ノ松神社をさらに下って行くと、
河口付近に西川が並行に走っていて、その水系に「住吉橋」があります。
そのすぐそばに住吉神社がありました。

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この住吉神社もまた神功皇后のゆかりの宮です。

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境内に敷き詰められた砂が、海の近くの宮だなと思わせてくれます。

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拝殿です。御祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命。

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神殿です。その裏に丘がありました。
その麓には登り口の痕跡が残っていますが、ざっと見渡しても、
登り道は草に覆われて見えず、登る気にはなりませんでした。
この丘に神功皇后は登って、水鳥たちを眺めたそうです。

福岡県神社誌を訳しながら読んでみましょう。
住吉神社 
祭神 底筒男命 中筒男命 表筒男命
由緒 不詳 (略)
社説に曰く、住吉大神はこの地の産土神と称え仰ぎ奉っている。
そもそも御鎮座の起源を尋ねたところ、神功皇后が御征韓の時、官船の先鋒となり、玉体に服従し守護された大神で、その霊験がいちじるしかった。

神功皇后は凱旋の功を遂げて筑紫の蚊田邑で誉田皇子を御産みになった。やがて鹵簿(ろぼ)を整え、東帰された時、崗の津に到着されて、この丘陵に登って、海上に浮かんだり飛び交ったりする水鳥を眺められた。後にそこを「鳥見山」と呼ぶようになった。

この時、神功皇后は群臣を召して、
「今度三韓をたやすく従えたのはひとえにこの神の恩寵である。ひとときでも忘れる事があろうか。」
と仰せになって、御手づから一株の松を植えてその根元に白幣を 納めて
「この松は神の御影と共に弥栄(いやさか)えに栄えよ」と言われた。
よって、ここを「若松」と唱えて住吉三神を祀られた。後に神功皇后を配祀したという。

旧記に、住吉の社は昔、神功皇后と同殿で「そのかみの釣を垂れ給ひし所なり」(意味不明)とも、また嶋門の駅の渡口なので、行き交う船の守護の為に昔からここに祀ったのだろうともいう。  (後略)
〔鹵簿(ろぼ)ー 儀仗警衛の隊伍を整えた行幸の列。明治以後は皇后以下皇族の行列にも用いた。〕

「崗の津」という懐かしい地名が出て来ました。
神功皇后が仲哀天皇と共にやって来たのが「崗の湊」でした。
熊鰐は「崗の縣主」ですから、ここもまた彼の領有地なのでしょうか。

神功皇后はこの丘の上から水鳥を眺め、住吉の大神の恩を決して忘れないと誓って
松を植えて白幣を納めました。白幣は神のシンボルなのかな。
住吉族はよほどの大功があったのでしょうね。
行き交う船の守護として祀り、住吉族の湊としても宣言されたのだと思いました。

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これは拝殿前から振り返って撮ったものです。
境内の向こうには川が何本もあり、遠くに山々が見えています。
かつては広い河口で干潟があったりする風景だったのでしょう。
神功皇后がじっと眺め続けたのを群臣たちが見守りました。

私は「神社誌」の「東帰」の言葉が気になります。
ここに帰ってきたという意味なのでしょうか。
それとも東の近畿の方に行くのでしょうか。
近畿には彼女はまだ行った事がなかったんじゃない?

「帰る」という言葉はどこを指すのか分からなくなりました。
みなさんはどう推理しますか?

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さて、これが一の鳥居で、川に面しています。船で参拝する宮だったのですね。
それについて「神社誌」には「嶋門の駅の渡口」だったと書いてあります。
「嶋門」と言えば嶋門物部がいます。大倉主が嶋門物部でした。(高倉神社祭神)

ここは古代から大事な駅の湊だったという事が分かります。
熊鰐と嶋門の境界地なのでしょうが、そこに住吉の神を祀ったという事は、
神功皇后に何か特別な考えがあっての事だったのでしょうか。
もう少し逍遥したら、もうちょっと具体的に見えるかも知れないな…。
まだ廻りきれない神社が沢山あります。

う~む。それにしても遠賀川は面白い。
このエリアの神社群には神武天皇や日本武尊や斉明天皇の名前もちらほら出て来るのです。
ほかに菅原道真とか景行天皇とか。
誰か研究してないのかなあ。

遠賀川流域の歴史館や市町村のHPなどを見ると、炭坑の時代の記憶が強烈だったらしく、
それに焦点が集まっていて、日本書紀などに出て来る神や人たちが往来した事についての
記述に出会えません。(まだ一部しか見ていないので、誤解でしたら是非教えてください。)

近畿の朝廷と諸外国との間で人や物が交流する時には、
必ずこの川の流域から上陸したり乗船したりしなければならないので、
歴史上の有名人の多くがここを通っているはずです。

古代史を見直す上で多くの手掛かりがある流域じゃないかな。
そんな思いがします。
遠賀川。もっともっと知りたいです。

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川から上がると見える境内と鳥見山がこんな風に見えます。
この山は広大な河口の灯台代わりだったのでしょうね。
この川を遡ると物部の里、鞍手郡に着きます。

地図 住吉神社








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by lunabura | 2012-04-14 17:06 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(9)
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Commented at 2012-04-15 09:02 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2012-04-15 18:10
そうなんですか。遠賀川式土器って能登あたりまで進出していて、とても興味深いですよね。(織幡神社に書いてます)
古墳に埋葬された人たちが祀っていたのが神社なので、考古学と神社伝承がつながると歴史の理解はもっと深まるのではないかと思っています。
私も写真を撮って伝承を調べるようになって、理解できるようになってきました。
遠賀町は大きなクニがあったと確信しています。
Commented at 2012-04-15 21:23 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2012-04-15 22:27
遠賀に弥生遺跡があることなどは、初耳です。
地元の方が強く発信しないと、人々にはなかなか伝わらないですよね。
鳩型祭祀土器など、HPなどで見れるのでしょうか。

三石神社も初めて知りました。こうしてコメントいただくと、手掛かりが増えて有り難いです。三石神社のお祭りの兵士の軍備がすごいですね。
倭軍の格好なのでしょうか。
具体的にイメージ出来て、興味深いです。
Commented by のら at 2012-05-04 03:41 x
先日、あるきっかけで『そういえば旧嘉穂町(例の三角道路地帯)に遺跡ってあったなぁ』と調べましたらありましたよ。
約」2100年前の弥生時代中期と言われる「鎌田原弥生墳丘墓群」とか「原田遺跡」とか。
なかでもこの「鎌田原弥生墳丘墓群」は何でも国内最古級の木槨墓だそうで。年代などを考えると朝鮮半島より古くなってしまうらしいです。
出土品は地元や九州国立博物館にあるらしく一度は観てみたいなぁと。
専門の方、頑張って!!
Commented by lunabura at 2012-05-04 09:54
遠賀川上流域にも弥生遺跡があるのですね。
前回の非公開さんのコメントは下流域の弥生遺跡の話でした。
古遠賀湾の周囲は早くから開けてたんですね。
それにしても、木槨墓とは!!
私も見てみたいです!
出土品もあるなら、すごいですよね。
やっぱり見たい。
う~ん。
遠賀川流域を全体から見た研究とかないのかなあ。
Commented by furutsuki at 2014-10-04 02:38 x
日本書紀では、このあと神功皇后が誉田別尊を連れて近畿に凱旋しますが、それに纏わる話が、神戸や京都のいくつかの神社に残されています。

神戸の長田神社の話はこうです。
神功皇后(じんぐうこうごう)摂政元年春2月、皇后が新羅より御帰還の途中、
武庫の水門に於て「吾 (あ)を御心(みこころ)長田の国 に祠(まつ)れ」との
お告げを受けて、山背根子の女・長媛(ながひめ)を奉仕者として創祀された。

背景にあるのは、誉田別尊が皇位を継ぐことを恐れた忍熊皇子が播磨赤石(明石)
で迎撃しようとした事件。神功皇后は長田を拠点として戦います。 
神功軍の将軍は、武内宿禰と難波根子建振熊(和珥臣の祖)です。
このとき、拠点を提供したのが山背根子(山背大国魂命)。

山背根子は、玉勝山背根子ともいい、事代主を奉祀していました。
京都府城陽市の木津川のほとりの 水主(みずし)神社に鎮座しています。
木津川の対岸は、息長氏の開拓地のひとつのようです。

息長帯比売(神功皇后)は、和邇氏の実質上の祖といえる日子坐王の子孫から出ています。
忍熊皇子の母は、大中比売命で、忍熊王自身は越前織田に劔神社を祀っています。
Commented by furutsuki at 2014-10-04 02:53 x
書き損じました。 「吾 (あ)を御心(みこころ)長田の国 に祠(まつ)れ」といったのは、事代主の宣託です。
Commented by lunabura at 2014-10-04 23:19
ありがとうございます!
このあたりのことがさっぱり分からなかったのです。
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