2012年 04月 25日
甲宗八幡宮・御神体は神功皇后の甲・甲の実年代は?そして別伝あり
甲宗八幡宮
こうそうはちまん
北九州市門司区
御神体は神功皇后の甲
甲の実年代は?そして別伝あり
甲宗八幡の「甲宗」は御神体が神功皇后の着用した甲(かぶと)だ
という事からついた名前だそうです。
この宮がある所は北九州市の北の果て。
関門海峡がすぐそこで、和布刈(めかり)神社も近いです。
門司区には「門司港レトロ地区」という大人が楽しめる、雰囲気のある観光地が
ありますが、そこから一足伸ばした所にこの神社はあります。

正面です。車は左の路地から駐車場に上がる事が出来ます。

夕陽で境内が少し赤く染りました。古代は海もすぐそばだったと思われます。

拝殿です。御祭神は
第一殿 応神天皇
第二殿 神功皇后
第三殿 市杵島比売命 多紀理比売命 多紀津比売命
です。

創建は貞観2年(860)。大友の兵火に二度遭い、門司大空襲でも社殿焼失。
その後、こうして復活しています。
さて、この宮は平安時代にどのようにして創建されたのでしょうか。
由緒書きを読んでみましょう。(一部口語訳)
清和天皇・貞観元年、大和国大安寺の僧行教が宇佐神宮に参拝して「桓武天皇が都を平安京に遷されてから50年以上も経過しましたが、いまだに王城を鎮護する神が有りません。願わくば神慮が私にくだって、守護神を教えてくださいますように。」
と祈願したところ、『われが都近くに移座して国家を鎮護しよう』と神勅があったので、貞観2年に清和天皇は太宰大弐の清原真人岑成(まひとみねなり)を勅使として派遣しました。
勅使の旨(むね)を受けた僧行教は、宇佐神宮の御分霊を山城国に遷座する(石清水八幡宮の創建)途中、門司ヶ関の霊峰・筆立山(ふでたてやま)の山麓に駐留しました。
すると筆立山の上空に瑞雲がたなびき、不思議にも八流(やながれ)の幡が天降(あもり)して光り、日月のように行教(ぎょうきょう)の袈裟を照らしました。
行教は「大神の出現、疑うべからず」と上申して、この地に宇佐神宮の御分霊を祀り、神功皇后のご着用の御甲(かぶと)を御神体として当神社を創建しました。御甲を御神体としてまつることから甲宗と称します。
祭主(初代宮司)は宇佐神宮の初代宮司・大神比義(おおがのひぎ)を始祖とする大神義勝であり、以来同家が宮司職を務めております。
これを読むと、石清水八幡宮の創建の事情が書かれていました。
行教が宇佐神宮で神勅を得て都に戻る途中、交通の要衝だったこの門司に駐留した時、
この山に不思議な光の現象があった事から、この山を祀るようになり、
御神体を神功皇后の着用した甲としました。
この甲は50年に一度の大祭の時に拝観できるそうですが、その大祭は2010年だったようです。
社務所で話を伺ったところ、甲は鉄製で周りには鋲がずらりと打ってあったという事ですが、
専門家が鑑定したところ、平安時代か鎌倉時代のもので、
同様の物が三か所にあるという話だったという事です。
この神社の創建時に、その時代の最上の甲が御神体とされたのでしょうか。
残念ながら神功皇后のものではありませんでした。
それはそれとして、実年代が明らかになってよかったです。
神功皇后の足跡がないかどうかを尋ねたところ、ここから対岸が見えるから
登られた可能性はあるけど、伝承としては具体的に残っていないという事でした。
それでも戴いた由緒書きには思いがけない別伝が…。
神功皇后
仲哀天皇の皇后であります神功皇后は、天皇が亡くなられた後に御意志を継がれ、九州の諸豪族と関係のあった三韓と仲違(なかたが)いがあり、その是非を正さんと出兵しました。
その時に皇后のお腹にいらっしゃったお子様は、凱旋後すぐに筑紫国で誕生しました。そのお方が応神天皇でございます。
皇后は長府の豊浦宮(忌宮神社)に皇居を定め、九州の諸豪族の動静をしばらく見定めるうちに三韓に対しての誤解も解け、前にもまして交流は盛んになりました。
その後、機会あるごとに学問、工芸、殖産などの技術者を招き、常に大陸文化を吸収する素地を作りました。
この由緒の注目点として、九州の諸豪族と三韓が関係あって仲違いがあった事、
また神功皇后は豊浦宮を皇居とした事が挙げられます。
これらは日本書紀には書かれていません。
私が日本書紀を訳した時、皇后たちが近畿に向かう事情が唐突で、
香坂王たちと戦う流れが不自然なので困った事を思い出しました。
仲哀天皇が都としたのは豊浦宮と橿日宮なので、
神功皇后が行ったことのない近畿まで何故行くのだろうかという
素朴な謎にぶつかったのです。
古事記に至っては、話に矛盾が生じていたので、
私が整理して変更して『古事記の神々』に訳をしているのです。
今思えば余計な事をしたかなと思っています。
こうなると、豊前から北九州にかけでの事象を記紀が省略しているのも、
何か隠しているなと、るなの嗅覚は真実を求めて鋭くなるのでした。
響灘(ひびきなだ)から周防灘(すおうなだ)。
下関から北九州~大分。
もっと歩くと思いがけない伝承に出会えそうです。
さて、関門海峡は源平の合戦の場でもありました。
神社の境内には平知盛の墓所がありました。

知盛は平清盛の子。

「元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで平氏滅亡の様を見届けた知盛は、
乳兄弟の服部家長と手を取り合って海へ身を投げ自害した。享年34。」
とwikiにありました。
34歳か。まだまだ若かったのですね。

境内のイチョウ。
地図
甲宗八幡宮
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