2012年 04月 27日
岡田宮・神武天皇とタカミムスビ神と熊鰐
北九州市八幡西区岡田町
神武天皇とタカミムスビ神と熊鰐
岡田宮はJR黒崎駅から600mほど南に下った所にあります。
近くの地名が熊手・熊西などなど。これは熊族に関わる地名なのだろうか。
日本書紀などに出て来る岡田宮はここなのだろうか。
行ったら分かるのだろうか。そんな思いで宮を訪れました。

一の鳥居はビルの間ですが、駐車場は左の方から廻り込むとありました。

一の鳥居から歩くと、すぐに参道が二手に分かれますが、どちらもOKです。

緑の多い境内を歩いていくと神門前に出ました。

拝殿です。御祭神は
中殿(岡田宮)神日本磐余彦命[神武天皇](カムヤマトイワレヒコノミコト)
右殿(熊手宮)大国主命(オオクニヌシノミコト)
少彦名命(スクナヒコナノミコト)
県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)
左殿(八所宮)高皇産霊神(タカミムスビノカミ)
神皇産霊神(カミムスビノカミ)
玉留産霊神(タマツメムスビノカミ)
生産霊神(イクムスビノカミ)
足産霊神(タルムスビノカミ)
大宮売神(オオミヤノメノカミ)
事代主神(コトシロヌシノカミ)
御膳神(ミケツカミ)
岡田宮、熊手宮、八所宮と、三つの宮が祀られていました。
まずは中殿の岡田宮、神武天皇について見てみましょう。
中殿(岡田宮)
岡田宮と言えば、記紀の神武天皇の巻に出て来るあの岡田宮でしょうか。
古事記と日本書紀の該当の部分を読んでみましょう。(るな訳)
古事記
イハレビコの命は同じ母から生まれた兄のイツセの命とお二人で、高千穂の宮で話し合いました。
「どこに行ったら、平らかに天の下にあるこの国の政治をして、臣下たちの奏上する話が聞けるだろうか。やはり、東に行こう。」と言われて、日向を発って、筑紫に行きました。
そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。
そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年間滞在しました。さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。
日本書紀
11月9日に天皇は筑紫国の岡水門に到着された。
12月27日に安芸国に着いて埃宮(えのみや)で過ごされた。
古事記では「岡田の宮」、日本書紀では「岡の水門(みなと)」となっていました。
まさにこの宮は該当の宮なのか?
社務所で尋ねて見ました。すると思いがけず、
「この宮は江戸時代にここに遷宮したもので、神武天皇が祀った所は一宮神社ですよ。」と教えられました。それを示す由緒書きがこれです。
慶長10年(1605年)、黒崎城築城の際に筑前六宿の起点となりて、現在地に御遷座され、福岡藩祈祷社・黒崎宿の産土神と定めらる。
元の場所が分からず、さらに電話で尋ました。
すると現在の熊西2丁目の電停近くで、岡田宮跡の石碑もあるとの事でした。
古事記に書かれた場所が残っている!!
それは驚きでした。
そこで場所を伺って、日を改めて一宮神社にも参拝しました。その参拝記は
「一宮神社・神武天皇の磐境神籬・岡田宮あと」
http://lunabura.exblog.jp/17333319/
に書いています。神武天皇が祀った盤境神籬をそのまま見ることが出来ましたよ!
それから800年経って仲哀天皇と神功皇后がその盤境神籬に参拝した訳ですね。
左殿(八所宮)
この八所宮には神武天皇が祀った神々の名が伝えられていました。
元は八幡西区区役所の公園あたりにあったそうです。
高皇産霊神(タカミムスビノカミ) 神皇産霊神(カミムスビノカミ)
玉留産霊神(タマツメムスビノカミ) 生産霊神(イクムスビノカミ)
足産霊神(タルムスビノカミ) 大宮売神(オオミヤノメノカミ)
事代主神(コトシロヌシノカミ) 御膳神(ミケツカミ)
この八神は皇居でも祀られている神々だそうです。
大変興味深い祭神の組み合わせですが、
今回は第一の神の高皇産霊神(タカミムスビ神)に注目しましょう。
タカミムスビの神
「タカミムスビの神と神武天皇との関わり」が古事記に書かれています。
(タカミムスビ神=高木神)
イワレビコの命が熊野の村に着いた時に大きな熊がほのかに、ふっと出て来て、そのまま消えてしまいました。すると、イワレビコの命は急に疲れてしまい、また率いていた軍勢も皆疲れて倒れてしまいました。
この時、熊野の高倉下(たかくらじ)という者が、一振りの太刀を持って、天つ神の御子が倒れている所にやって来て、その太刀を献上しました。
すると、イワレビコの命はすぐに目が覚めて起き上がり、「長く寝たなあ。」と言われました。そして、その太刀を受け取ると、その熊野の山の荒ぶる神はひとりでに皆切り倒されました。すると惑わされて倒れていた軍勢も、みな目が覚めて起きました。
そこで、イワレビコの命が高倉下に、その太刀を手に入れた事情を尋ねると、高倉下は、こう答えました。
「こんな夢を見ました。天照大御神と高木の神の二柱の神が建御雷の神を召して、言われました。『葦原の中つ国はひどく騒いでいるようだ。我が御子たちが病んでいるらしい。その葦原の中つ国は、そもそもそなたが平定した国である。だから、そなた建御雷の神が天降りしなさい。』と。
そこでお答えになったのが、『私めが天降りしなくても、その国を平定した太刀が有るので、その太刀を下ろすのがよろしいでしょう。』と。(この太刀の名は佐士布都(さじふつの)神と言い、またの名は甕布都主(みかふつぬし)と言い、またの名は布都御魂(ふつみたま)と言う。この刀は石上神宮にある。)
そして、私にお告げになったのです。
『この刀を降ろす方法だが、高倉下よ、お前の家の倉の屋根に穴を開けて、そこから落とし入れる。だから、縁起をかついで、朝、目を覚ました時に、一番最初に目に入るようにして、天つ神の御子に奉りなさい。』と。
朝、目が覚めて、夢で教えられた通りに倉を見ると、本当に太刀がありました。だから、その太刀を持って献上しに参りました。」と高倉下は申し上げました。さらに付け加えて言いました。
「その時、また、高木の神が教え諭された事には、『天つ神の御子を、これより奥の方には、入らせないようにしなさい。荒ぶる神がとても多い。今、天から八咫烏(ヤタガラス)を遣わす。その八咫烏が道案内をするであろう。それが飛び立った後から、行軍されるように。』との事です。」
タカミムスビの神が高倉下(たかくらじ)を通して太刀(フツの御魂―石上神社蔵)と八咫烏を神武天皇に授ける内容です。
高天原の経営はアマテラス一人でなく、このタカミムスビの神がリードしています。
そしてこの八所宮の八神を見ると、アマテラスが入っていず、
第一神がタカミムスビの神となっています。これは大変興味深いですね。
(高良玉垂宮では山頂には、もともと高木の神が祀られていたのが麓に下りていますョ。⇒高樹神社)
夢のお告げを受けた高倉下については、
奥野正男氏が高倉神社と関わりがあるのではないかと論じています。
高倉下が物部氏だとすると、フツの御魂という神剣が石上神社に祀られる事にも上手く繋がって行きます。
高倉神社もまた岡の水門にあり、熊鰐とは川を挟んで協力し合っている様子が
これまでの逍遥で見えていました。
記紀に書かれている岡田宮は今も変わらず祀られていました。
熊野の村は紀伊半島でなく、この洞海湾での話の可能性はないか。そんな思いも最近はしています。

(境内)
右殿(熊手宮)
熊手宮にはあの熊鰐が祀られていました。
神功皇后に援助を惜しまなかったその人柄の魅かれて、
私は熊族をもっと知りたいと思うようになったのですが、
この宮の由緒書きを見ていて、その冒頭に大きな情報があった事に気づきました。
岡田宮略記(HPより)
当宮は古代、崗地方(旧遠賀郡)を治めていた熊族が洞海・菊竹浜(貞元)に祖先神を奉斎した地主神にて、岡田の宮と称し、この地を熊手と号す。
神武天皇日向国より東征の途次、当宮に詣り、天神地祇の八神(八所神)を奉斎し、この地に留まり給う由「古事記」にあり。
仲哀天皇8年(199年)、神功皇后、三韓征討の折、崗県主祖・熊鰐の案内で熊手出岬(皇后崎)に到り、当宮に詣り、八所神を親祭する由「日本書紀」にあり、これを岡田の三宮と称し「天」「地」「人」の三才を表す。
熊手宮は熊族が祖先神を奉斎した宮で、やはり一宮神社の所にあったそうです。
そこで地主神(じしゅしん)を祀っていました。
右殿(熊手宮)
大国主命(オオクニヌシノミコト)
少彦名命(スクナヒコナノミコト)
県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)
これは…。
熊族は大国主命と少彦名命を祀っていた事になります。
あの熊鰐さんは出雲の神々を祀っていた?祖神は出雲神?
そんな疑問が起こったので、神社にお尋ねすると、
「はっきりとした社伝は伝わっていません。
二神が熊族の直接の守護神と結びつくかどうかは定かではなく、
当時、出雲から勧請されたのが祀られているのではないでしょうか。」
という内容のお答えでした。
それでも熊族と出雲の神々とは深い関わりがあるのがこれで分かりました。
宗像の姫神たちとも結ばれた大国主です。この洞海湾を必ず通ったはず。
これからも逍遥を重ねて行くと、
古代出雲のさらに原型となる姿が浮き彫りになるかも知れませんね。
さらにブログ名が「八咫烏の声」という事でその由来もお尋ねしました。
神武天皇を援けた二羽の鳥が「八咫烏と金の鳶(とび)」。
神の使いとして社殿の幡にも、この二羽が描かれていて、それから採ったという事でした。

さて、拝殿の神額は貝原益軒が奉納したものだそうです。
筑前国続風土記でいつもお世話になってま~す。
益軒さんもこの宮をとても大切に思ったのですね。

境内のイチョウ。
随分前に参拝した神社ですが直接話が聞けてよかったです。
いろいろとありがとうございました。
地図 岡田宮 一宮神社
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百社完成おめでとうございます!!
今回の記事はとても興味深く読ませていただきました。
タカクラジと大蔵主は何かしらの血縁関係があるのでしょうか?
以前読んだ本にタカクラジを祭った熱田神宮近辺から、
遠賀川式土器が見つかったと書いてあったものですから。
それと両神とも刀にまつわる逸話があるのも興味深いです。
なんだか草薙の剣盗難事件も含めて小説が書けそうなわくわくする話ですよね。
ついでにもう一つ質問ですが、熊鰐と大蔵主は同時代の神様なんでしょうか?
質問ばかりですみません。
熱田神宮から遠賀川式土器が見つかったとは、大変興味深い話ですね。
そこにタカクラジを祀っているのも初めて知りました。
これは鞍手郡と比較しながら調べると、もう少し資料が出て来そうな予感です。
教えて下さってありがとうございます。
熊鰐と大倉主は同じ時代と捉えています。
ただ、熊鰐は個人の名ですが、大倉主は歴代の名前かも知れませんね。
勝山勝田神社では大倉彦が祭神ですから、一族かな、個人名かなと考えたりしました。
いずれにしろ、物部氏だと思っています。
古代は領地がそう簡単に変わった訳ではないと思うので、高倉下と大倉主は一族の可能性は十分にあると思います。
ただ、高倉下についてはもっと調査が必要だと思っています。
以前より、興味深く拝読させて頂いておりましたが、今回の記事の衝撃(?)さに思わず初コメです。
やはり、『先代旧事本紀』の八尋熊鰐と、この熊鰐さんは何かしら関係があるようですねぇ。
私は、大己貴(大穴持)=大倉主 と考えているので、宗形で『謎』が繋がりそうで、大変興味深いです。
今後の、るなサンの推理が楽しみです!
『先代旧事本紀』の八尋熊鰐とは初耳です。(古事記と日本書紀ぐらいしか知らないんです。)
うう。読みたい。どんなお話なんでしょ。
大己貴=大倉主ですか!これもまた目が覚めそうな説ですね。
この近くの地名に穴生とか鉄王とかあるので、もっと古代の姿が明らかにならないかなって、考えているんですが、推理するにも、駒不足です。
ぼちぼちと参ります。
応援ありがとうございます。 (^-^)
以前の記事にあった、大己貴神は先に宗像奥津宮に座す田心姫を・・・には続きがあって、『都味歯八重事代主神、八尋熊鰐に成って、三島の溝杭の女、活玉依姫の元に通い一男一女を生む。』先代旧事本紀の系譜からの抜粋のようです。(旧事本紀をネットに投稿されている方がいますよ)
また、大己貴(亦名 大穴持)=大倉主は、弥生前期の貯蔵庫は『穴』ですよね。この流域では『穴』を『KURA』と呼んでいたのではと。大きい倉(穴)の主で、同意語だと思ってます。
こう考えると、直鞍で殆ど聞かないのに、旧三輪町で大己貴を祀って兵が集まったのも合点がいくような・・・。
大国主命様の御子は、建御名方神様(兄).事代主神様(弟)で在らせられます。事代主神様は、海の神様であり航海術を得意とする部族の長であり別名熊鰐です。大国主神様の祖先は、素戔嗚尊様であり、国津神の血筋。仲哀天皇、神功皇后を三種の神器を掲げてお迎えしたのも熊鰐の一族です。そして、宗像大社の祭られている三女神の傍にいらっしゃる神様も、事代主神様なのです。もう少し話すと、住吉神社に祭られている神の中にも事代主神様がいらっしゃいます。この事から言えるのは…もうお解りですよね?笑
機会があれば、今度お話ししたいと思います。
今後も楽しくブログ拝見させて頂いきます。
かしこ








