2012年 05月 03日
新羅の王城―月城
新羅の王城―月城
日本書紀を訳していて驚いたのは、朝鮮半島の地名が沢山出て来る事です。
王族も姫も兵士もどんどん行き来しているし、城の名前なども出て来ます。
書紀の編者は九州より朝鮮半島の地形に詳しいんじゃない?なんて思ったほど。
福岡の神功皇后伝承地を百社廻った後もまだまだ謎が残りました。
彼女が新羅まで行かされた目的は本当のところ、何だろう。
当時の新羅の国名は何だろう。
降参した新羅王ハサムキム(ミシコチハトリ)は向こうでは記録されているのだろうか。
津波が国の半ばまで上がったと解釈したが、地理的に整合するのだろうか。
塵輪(じんりん)が倭国の皇居を襲ったという事は、それ以前からの両国に交流があった事を示している。
それはどんな形だったのだろうか。
次々に謎が生まれます。
こりゃあ、朝鮮半島を勉強しなくちゃ…。
しかも1800年以上も前の事を…(とほほ)。
新羅と言っても1000年王国(実際は820年ほど)という長命国なので、
時代によって名称も国土の広さも変化しています。
途方もない長い歴史の海の中へ、えんやこら船を漕ぐ~♪
という訳で今回は新羅の都の場所を探してみましょう。

はてさて、新羅の都は何処だ?
対馬からは夜になると朝鮮半島の光が見えるというけど、
目的地はいったいどこにあるのか、これじゃあ分かりません。
皇后軍は対馬から先は何処に向かって行ったのでしょうか。
答えはここ。

こうして地図を見ると、海の道をしっかり把握出来ていないと
辿り付けないのがよく分かります。
戦う敵国の在り処(ありか)や敵の軍備状況ももちろんですが、
潮の道、暗礁などあらゆる情報が整わないと海を渡ってまでも戦えませんね~。
アントンイソラが舵取りする大きな船でも、やはり道先案内がいなければとても無理。
実は私は佐賀県に伝わる、神功皇后のダミーが渡海したという伝承を
まだ捨てられないでいます。
臨月の皇后が渡海するのは無理じゃないかなってね。
まあ、戦略的にもダミーを作って置くのは基本でしょ。
たとえ神功皇后本人が新羅に上陸して城の門に矛を立てたとしても、
弥生時代後期に城なんてあったのだろうか。
こりゃあ、新羅に行かなくちゃあ分からない?
しかし、さすがのるなさんも、これまでのように突進する訳には行かないので、
グーグル・アースで現代の新羅から入って行く事にしました。
新羅があるのはキョンジュ市です。慶州市と書く方が分かりますよね。
(なんで韓国の地図は漢字を使わないんだ…。)
幸いにも新羅は都の場所が変わっていません。ずっと同じ所に王宮があるのです。
その場所は?
慶州国立博物館という有名な博物館がありますが、
それこそ新羅の都に建設されていたのです。

少し近づいて見ました。キョンジュ市の地形を見ると、盆地で、
海岸からは一山越えた安全な所に国が形成されたのが分かります。
新羅を攻撃するとしたら山越えでなく、
南のウルサンか北のポハンに上陸して川沿いに進軍するしか方法がないです。
『韓国歴史地図』(平凡社)によると、
北のポハンから倭人の侵入があった記録が書いてあります。
その年代は232、364,393年です。
またさらに北の浜からの倭人の侵入が233,292、294年。
(この年代がどうやって割り出されたかは分かりません。
著者は韓国教育大学歴史教育科ですが日本語で書かれた本です。)
神功皇后の侵攻はこれまでの推定で201年。むむ。誤差があるな。
しかし倭人が何度も侵攻した記録が向こうに残っていたとは。
こりゃあ、お互いに何度も侵攻しあってるぞ。
津波が起こって一気に国の半ばまで入ったと日本書紀を解釈した件
については妥当性はあるのかな。
ポハンから慶州まで直線距離で約22キロ。慶州の標高は約60m。
まあ、川の中流域までなら行けたかな…。微妙ですね。
それでは、日本書紀の新羅攻撃あたりを読んでみましょう。(るな訳)
冬10月3日、対馬の和珥(わに)の津を出発しました。その時、風の神は風を起こし、海の神は波を立て、海の中の大魚はみんな浮かび上がって船をたすけました。順風が大きく吹いて、帆船は波に乗りました。カジや櫂(かい)を使わずに新羅に着きました。その時、大波(津波)が起こって船は国の中に到達しました。まさしく天神地祇が助けたのを確信しました。
新羅の王は戦々恐々として、成す術もありませんでした。そこで諸人を集めて言いました。
「新羅の建国以来、いまだかつて海水が国に上って来た事を聞いたことがない。これは天運が尽きて、国が海中に没しようとするのであろうか。」
そう言い終わらないうちに軍船が海に満ちて、旗が日に輝いていました。
鼓や歓声が起こって、山や川に響き渡りました。新羅王はそれを遥かに望んで、想像以上の兵が我が国を滅ぼそうとしていると思い、恐ろしさに気を失いました。
目が覚めると、
「東の方に神の国があると聞いていた。日本と言う。聖王がいて天皇と言うとも。きっとその国の神兵たちだろう。挙兵して応戦することは無理だろう。」
と言って、白旗をあげて、首に降伏の印の白い縄を付けて降伏しました。
土地の図面と人民の戸籍を封印して支配権を放棄したことを示し、王船の前に降伏しました。頭を垂れて、
「今から後、長らく天地に従うように、貴国に従って馬飼部となります。船のカジが乾かないほど頻繁に春と秋には馬の櫛とムチを献上してお仕えします。また遠く海を越えるのを厭わず、毎年、男女を献上します。」と言いました。
そして重ねて誓って、
「東から出る太陽が西から昇ったり、天の川が逆さまに流れたり、川の石が昇って星となるような事が起こらないのに、春秋の朝貢や馬の櫛とムチの献上を止める事があったら、きっと天の神、地の神の罰があるでしょう。」
と言いました。
その時、日本側の或る人が「新羅の王を殺しましょう。」と言いました。すると皇后は
「もともと神の教えを受けて、金銀の国を授けられるのだ。全軍に『自ら降伏するものを殺してはならない』と命令したのだ。既にこうして財宝の国は手に入った。新羅の者は自ら降伏したのだ。殺すのは不条理だ。」
と言って、その縄をほどいて馬飼部としました。
ついに、その国の中枢に入って財宝の蔵を封印して、地図・戸籍・文書を没収しました。そして皇后の持っていた矛を新羅王城の門に立てて、後の世の印としました。この矛は今でも尚、新羅王城の門に立っています。
そこで新羅王ハサムキム、別名ミシコチハトリ干峡(かんき)を人質として、金銀・彩色・綾絹・うす絹・固く織った絹を八十隻の船に載せて、官軍に従わせました。これよりのち、新羅王が常に八十隻の朝貢を日本国にするのは、この戦いの所以からです。
高麗、百済の二国の王は新羅が地図・戸籍を取り収めて日本国に降伏したと聞いて、ひそかに日本の軍勢を伺い、勝つ事が出来ないのを悟ると、自ら営舎の外に出て、頭を下げて「これより後は、永く西蕃(せいばん)と称して、朝貢をし続けます。」と言いました。
こうして日本は内官家屯倉(うちつみやけ)を置きました。これがいわゆる三韓です。皇后は新羅から帰還しました。
日本書紀を読んでると、セリフが長い所は編者の創作がかなり入ってるのが
分かります。(その上、るなの解釈が加わってます…。)
指揮官のセリフは特に熱が入ってます。編者の好みが反映してるんですね。
文脈を追うと、矛盾があるのも分かります。
それはそれとして、描かれた情景を実際の地形に乗せられるのか、
地図を見るのは私の楽しみなのです。
それでは、新羅の王城がある所に空から近づいてみましょう。
慶州は、かつては「金城」、「東京」とも呼ばれていました。
(この過去の地名を押さえるの、ポイントです。)

近づいて行くと、月の形をした丘が見えてきます。
西暦101年。この丘に王宮を築いて「月城」と名付けました。(三国史記)
「半月城」とか「新月城」とも言ったそうです。
王たちは代々、この月城に住みました。
だから、神功皇后が行ったとしたらこの「月城」だという事になります。
月の形をした丘に月城とは素敵なネーミングですね。

これは自然に形成された丘陵で、周りに石垣を積んで山城にしています。
南には川が流れて自然の要塞になっていますが、
北側には3~40mの幅の堀を掘って守りを固めています。
この山城に入城するには南に架かった二本の橋しか通れません。
この月城の中のエリアは平坦ですが、まだ発掘されていません。
これからが楽しみなところです。
後に、この月城から北の方に「満月城」を造ったそうです。
満月城に向かう広い道がまっすぐについていて、周囲は役所が並んでいたそうです。

その一角にあの瞻星台(たんせいだいー天文台)がありました。
善徳女王の時代に造ったものです。
斉明天皇と時代が重なります。(画像出典 グーグルアース)

(ドラマ「善徳女王」より。
女王の王冠やベルト、宝飾品のデザインは古墳から出土したものがモデル。
月城が未発掘なので、ドラマの王宮は美術スタッフの創造と思われます。)
その王宮殿の北西には広大な庭園がありました。

(画像出典 グーグルアース)
これが現在のようす。雁鴨池(月池)というそうです。
新羅の王たちは月を愛したのですね。
月城の右下には慶州国立博物館があります。
慶州の歴史探訪はこちらのサイトに詳しく載っています。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/kannkokunotabi.3-2.html
さて、この新羅。弥生時代はどんなふうだったのでしょうか。
次回も新羅を辿りましょう。
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