2012年 05月 14日
百済の前方後円墳(2)・磐井の君VS継体天皇の背景
百済の前方後円墳(2)
磐井の君VS継体天皇の背景
前回は百済の南方に集中する前方後円墳や横穴墓が北部九州につながる事を書きました。
横穴墓については遠賀川流域のものと類似している事が分かったのですが、
前方後円墳の方は石室構造が北部九州系である事が指摘されています。
それが次の要約です。
3 579年、『日本書紀』雄略23年の記録によれば、百済の三斤王が死去した際、
東城王の帰国を筑紫国軍士500人が護衛したという。
この記録は栄山江流域の前方後円墳の石室構造が北部九州系である点、
北部九州地域における百済産の威身財、
栄山江流域の倭系古墳に甲冑や刀剣などの武器・武具が
顕著に副葬されるという考古学資料と符合する。
したがって護衛のため韓半島に渡った彼らが帰国せずに栄山江流域に配置され、
百済王権に仕えた と推定される。
―百済の王の帰国を護衛したのは筑紫の軍士たちなんですね。
同じような話を小郡市の「黄泉の道―古墳巡り」でも書きました。
筑後川や遠賀川で鍛錬した武人たちは軍船を並べて韓半島へと渡ったんだ。
小郡市「黄泉の道」古墳巡りはこちら
http://lunabura.exblog.jp/i190
百済は都から遠く離れた栄山江流域を支配するために、
息のかかった百済人を支配者に据えて現地の豪族たちを押さえ、
さらに牽制するために倭人の軍勢をそのまま駐屯させたようです。
倭人を外人部隊のように使ったという感じでしょうか。なかなかの政策だな。
倭人たちの中には百済の高級官僚になった者もいました。
彼らは当地で手に入った金細工の宝飾品などを自分の故郷の首長たちに送り届けた結果、
倭国の首長たちの死後に、それらが古墳に副葬される事になったと考えられます。
だから日本で百済系のものが出土するんですね。
(熊本の江田船山古墳と百済の益山笠天里古墳の副葬品 画像出典は朴天秀氏のPDFより)
この金銅の靴は福岡や近畿でも出土しています。
さて一方で、百済の倭人たちは故郷から持ち込んだ須恵器やゴホウラの釧なんかを
死ぬまで手元に置いていました。そして亡骸と共に埋納されました。
だから、韓半島に倭の物が出土する訳です。
彼らは百済王を送り届けるという名誉ある任務のために選抜された、つわものたちで、
異国で死ぬ事も覚悟していたのでしょうが、
拙(つたな)い造りの現地制作の円筒埴輪を見ると、
倭国の美しい前方後円墳を作る事で、故郷への思いを込めたんだろうなと思われて
ちょっと切なくなります。
(写真はPDFにあります。)
百済に突然出現した前方後円墳は、短期間で作られなくなります。
その原因として磐井の乱が無関係ではなかった事が次の文からうかがえます。
4 継体王権の擁立には5世紀後半から
瀬戸内海沿岸と山陰・北陸などに広い関係網を持っていた九州勢力が
百済王権との仲介などの役割をしたと推定される。
その一方で栄山江流域の前方後円墳被葬者を含めた
北部九州の有力豪族の対外活動が頂点に達し、倭王権をおびやかすようになった。
その結果が527年に起きた磐井の乱と考えられる。
その後、当地での前方後円墳の造営は停止するようになり、
倭系百済官僚の出自は畿内周辺に集中するようになる。
―百済の倭人たちは百済と倭国を取り持つ仲介者として力を増大させていきます。
彼らは九州出身ですから、当然ながら筑紫の君たちを大切にします。
それが継体天皇との戦いの一因となって行ったようです。
思い出すのは、日本書紀のこんなシーンです。
継体天皇21年の夏、6月の壬辰(みづのえたつ)の3日に近江の毛野(けな)の臣は6万の軍勢を率いて、任那(みまな)に行って、新羅に占領された南加羅(から)・トクコトンを取り返して任那に合併しようとしました。
この時、筑紫の国の造(みやつこ)磐井(いわい)は密かに背く計画を立て、協力せずに、ぐずぐずして年月が経ちました。実行が難しいので、つねにチャンスを伺っていました。
新羅はこれを知って、密かにワイロを磐井のもとに送って、勧めました。
「毛野(けな)の臣の軍勢を防ぎ止めてほしい。」と。
ところが磐井は火の国、豊の国、二つの国に勢力を張りながら、朝廷の職務を遂行しませんでした。
外は海路を通って高麗(こま)・百済(くだら)・新羅・任那などの国からの、毎年の貢物(みつぎもの)を持ってくる船を自分の所に誘導し、内には任那に派遣した毛野臣の軍勢を遮って、無礼な言葉で、
「お前は、今は朝廷からの使者になっているが、昔は私の仲間として、肩を寄せ、肘をすり合わせて、同じ釜の飯を食ったではないか。どうして、急に使者になって、私にお前なんかに従えというのか。」
と言って、ついに戦って、受け入れませんでした。
磐井は奢り高ぶっていました。毛野の臣は前を遮られて、進軍できずに停滞しました。
青い部分を見て下さい。
これって、継体天皇のイチャモン・難癖じゃない?
と、訳しながら思ったんですが、やはりそのようですね。
九州の武人たちが身体を張って百済を守り、その対価として韓半島との交易権を握ったのに対して、
継体天皇が横やりを入れたというように見えて来ます…。
それにしても百済もまた、したたか。
倭人の駐屯地を三か所に分けて、倭人同士が連絡しにくいようにする方策をとったことが、古墳の配置から推理されるそうです。
北の海岸には高句麗戦略の基地とした形跡が。
そして百済は倭国のの二大勢力である九州の勢力と近畿王権を両天秤にかけて上手くバランスを取っていたのです。
朴氏の論文には「九州勢力」とか「古代の九州」という言葉が出て来ます。
これって、いわゆる「九州王朝」のことかなぁと思いながら読みました。
いろいろと考えさせられる面白い論文でした。
さて、当初の謎―百済の前方後円墳の被葬者について
その答えが九州北部と繋がった手掛かりは石室構造でした。
上の写真はそれをよく示す海南長鼓山古墳の石室です。
これも朴天秀氏のPDFによる写真ですが、赤いベンガラが塗ってあります。
いかにも倭国的です。
これが春日市の日拝塚古墳とかなり近いそうです。
数日後に、思いがけず私はその日拝塚古墳に行く事が出来ました。
参考文献
「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳」
―古代九州との国際交流― 朴天秀(慶北大学考古人類学科教授)
韓半島南部の栄山川流域の主な前方後円墳と 古代日本との交流を示す出土物
http://www.kiu.ac.jp/organization/library/memoir/img/pdf/kokusai5-1_2-001paku.pdf
<追記>
この朴天秀氏の論文の下線部分について問題があるので次回はそのお話です。
ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村
先日は水巻の歴史資料館で土器を見て来ましたが、芸術作品といえるものから手ひねりまで、いろいろと見て来ました。
レプリカ製作でも、多くの発見があるんでしょうね。
つまり割譲以前は倭国の支配地で、倭人が支配層として駐留して当然。割譲後は百済人が支配し、倭人は姿を消す、朴氏の言う遺跡状況と一致します。
その遺跡・遺物が九州と一致・類似するのは、半島南部を支配していた倭国とは九州を指す事になります。
更に、5世紀は倭の五王の時代で、「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の称号の示す様に、半島南部の支配者だったのですから、彼らも又九州の王、倭国は九州となりますね。
残念なのは、朴氏が埋葬された倭人を「百済王権に仕えた倭系百済官僚」で「百済王権に臣属」していたと「百済中心主義」で解釈している事です。
それなら、割譲後も倭人が残り墳墓も作って然るべきなのに消滅している。これは百済でなく倭国の支配を示すものです。
韓国の古墳と『書紀』は一致して「5世紀の九州なる倭国の半島支配と6世紀初頭の撤退」を証明しています。
その前段が、4世紀末、神功皇后=筑紫の女帝の半島での激戦だったのでしょう。
この時代に韓半島南部を支配していたのは倭国であって、倭国とは九州にあった点は、充分にうなずけます。
いただいたコメントーコメントではもったいないので、この記事のつづきとしてUPさせてください。
また、「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」という称号の出典を教えて下さいませんか?
慕韓は馬韓=百済なので、すごく広いエリアの王ということなのですね。
少し解説していただけたら嬉しいです。
上記の記述もそうなのですが、百済滅亡時から白村江の戦いの期間にも、百済の王位継承者が倭国内にいたと記憶しています。
これは、百済王の次期王位継承者は倭国内に人質に取られていたということを占めす事例なのではないでしょうか。
百済国内の前方高円墳のある地域は、現代日本に置き換えれば「日本国内の米軍基地」のようなもので、百済王の意思以上に倭国王の意思で駐屯していた部隊なのではと推察します。
高句麗を牽制すると同時に、百済の不穏な動きがあれば即応できるように。
朝鮮半島南部は日本にとっては古代も現代も北からの脅威に対する緩衝国という地勢学的な位置付けは変わらないと思います。
もう少し読みこんだらもっとクリアになるかと思います。
また中国の歴史書を読んでいたら、倭国は那の国だと書いてありました。
その居城は「筑紫城」とはっきり書いています。 (@_@;)
今、筑紫城を探し始めた所です。
三か所ほど候補があって、いずれ絞り込む予定です。
何か思いつく事があったら教えてください。
478年「宋王朝の承認」を得て、479年「武」は直ちに高句麗との戦端を開いた、しかもそれは筑紫の兵士と筑紫の軍船によってだった。『宋書』と『書紀』と「韓国の遺跡状況」がここでも見事に一致しますよね。(なお、きりんさんのコメントで579年とあるのは479年の書き違いと思います)