2012年 05月 16日
百済の前方後円墳(3)そこは倭国の支配下だったー四県割譲事件
百済の前方後円墳(3)
そこは倭国の支配下だったー四県割譲事件
話は双方から聞いてみるもんだ。
この百済の地に出現した前方後円墳について(1)と(2)では
朴天秀氏の論文を参考にして、被葬者が北部九州の倭人である事が分かりましたが、
その身分について問題が出て来たので、
今回は予定を変更して、hurutakaimasakiさんの話を紹介します。
朴天秀氏は「百済における前方後円墳の被葬者」は
「倭人で、百済王権に臣属しながら倭王権と百済王間の外交で活躍した人物」
と書いていますが、「臣属」という表現についてhurutakaimasakiさんから
「栄山江流域の支配は百済でなく、倭国である」という指摘をコメントでいただきました。
Hurutakaimasakiさんはこの時代について大変詳しく研究されています。
「倭の五王」「磐井の君と継体天皇」という興味深い時代なので
今回はそのコメントを道しるべに、この時代を逍遥しましょう。
Hurutakaimasakiさんのコメント(青い字)を少しずつ読みながら、
例の調子で、るなの感想などをつらつらと。
「韓国栄山江流域は、哆唎・牟婁と言われた地域で、
『書紀』では継体6年(513)に倭国から百済に割譲されています。
つまり割譲以前は倭国の支配地で、倭人が支配層として駐留して当然。
割譲後は百済人が支配し、倭人は姿を消す、朴氏の言う遺跡状況と一致します。
その遺跡・遺物が九州と一致・類似するのは、半島南部を支配していた倭国とは九州を指す事になります。」
―むむ。現在テーマにしている、百済の前方後円墳の集中するエリアはもともと倭国で、百済に割譲されたのですか。
コメントにある哆唎(たり)と牟婁(むろ)という地名については左のような場所が推定されています。
それについて日本書紀に書いてあるので、さっそく訳してみましょう。
継体6年の夏、4月6日に穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣しました。その時、筑紫国の馬40頭を贈りました。やあ、思いがけず神功皇后が出て来ました。
冬12月に百済は日本に使いを送って朝貢してきました。別に上表文を書いて、任那国の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県(こおり)を譲渡するように請願しました。
哆唎国守(みこともち)の穂積臣押山が
「この四県は百済に近く、日本からは遠く隔てています。哆唎と百済は近くて朝夕通い易く、鶏や犬がどちらの国のものか分からないほどです。今、哆唎を百済に与えて合併させるのは手堅い政策で、最良のものでしょう。しかし、たとえ百済と合併させても(他国からの侵略に対して)まだ危ういといえますが、それでも百済と切り離して置いたなら、数年も守りきれないでしょう。」と奏上しました。
大伴の大連金村も詳しくこの事情を知っていて同じ内容を奏上しました。そこで物部の大連・麁鹿火(あらかひ)を勅命を伝える使者としました。
物部の大連・麁鹿火は難波の客館に出立して、百済の使者に勅命を伝えようとしましたが、その妻が強くいさめて、
「そもそも住吉大神が初めて海の向こうの金銀の国、高句麗、百済、新羅、任那などを、胎中天皇と言われる誉田天皇に授けられました。だから大后の息長足(おきながたらし)姫の尊(神功皇后)が大臣の武内宿禰と国ごとに官家(みやけ)を初めて置いて、海外の属国として長年経っているのです。そのように由緒あるものです。
もしそれを裂いて他の国に与えたなら本来の区域と違ってしまいます。永く世のそしりを受けて人々から非難されるでしょう。」
と言いました。
大連(おおむらじ)は
「そなたが言うのも道理だが、勅命があった以上は、反対すれば天皇の命令に逆らう事になる。」
と言いました。妻は強く諫めていいました。
「病気だと言ってあなたが伝えなければいいのです。」
大連は妻の言葉に従いました。そのため、改めて使者が選ばれて、勅文に下賜の物を付けて、百済の上表文に応じて任那の四県を与えました。
勾大兄(まがりのおおえ)皇子はこの件に関して全く知らず、あとで勅命があった事を知りました。驚いて悔いて変更する命令を下しました。
「誉田天皇の御代から官家(みやけ)を置いていた国を軽々しく隣国が乞うがままにたやすく与えられようか。」と。
すぐに日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わして改めて百済の客人に伝えました。
百済の使者は言いました。
「父の天皇が便宜を図られて既に勅命を与えられたのです。子である皇子がどうして父帝の勅命を変えて、みだりに改めて言われるのですか。きっとこれは虚言でしょう。もしそれが真実ならば大きな頭の杖を持って打つのと小さな頭の杖を持って打つのとどっちが痛いでしょうか。(もちろん天皇の勅命が重く、皇子の命令は軽い。)」
と言って帰国しました。
のちに「大伴の大連と哆唎国守の穂積臣押山は百済のワイロを貰ったのだ」という噂する者がいました。
ホムダワケ皇子を妊娠したまま韓半島に渡ったという事で、
皇子は母の腹の中にいる時に勝利したという意味で胎中天皇と呼ばれています。
それが誉田天皇であり、別名応神天皇です。
(やっぱり一人の天皇が二つも名前を持っているのは変だし、ややこしいゾ。)
あの神功皇后の新羅制圧の後はずっと韓半島は倭国の属国となっていたのですね。
ところが継体天皇の時代に、四県を百済が譲渡してほしいと言ってきて、
あっさりと承諾してしまいます。
こうして南韓半島の四県の支配権は日本から百済に移りました。
日本書紀からすると、確かに朴氏の表現は誤解を生みます。
「四県譲渡」について触れられる方が良いのではないかと思いました。
いや「四県譲渡事件」は常識なので、述べるほどの事もないとしたら、
るなの勉強不足でした。いやはや失礼しました。(汗)
「残念なのは、朴氏が埋葬された倭人を『百済王権に仕えた倭系百済官僚』で『百済王権に臣属』していたと
『百済中心主義』で解釈している事です。それなら、割譲後も倭人が残り墳墓も作って然るべきなのに消滅している。これは百済でなく倭国の支配を示すものです。」
―そう。これでやっと、このhurutakaimasakiさんのコメントの意味がよく分かりました。
(つづく)
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残念ながら、上の指摘は少し違います。学問的に事象を誤解して、百済に臣属と「解釈」したのではありません。
「現在の大韓民国に生きる自分たちの民族は、古代から現代に到るまで常に日本などより上の立場であった」という第二次大戦後に朝鮮民族主義者によって作られた神話の設定から外れることは許されないのです。
すなわち、『現代韓国中心主義』です。学問ではなく、宗教です。