2012年 05月 31日
百済の前方後円墳(6)『旧唐書』日本伝・日本国の成り立ちと不思議な白亀年号
百済の前方後円墳(6)
『旧唐書』日本伝
日本国の成り立ちと不思議な白亀年号
『旧唐書』の倭国伝について、現代語訳をしましたが、
冒頭の部分について、多くのアドバイスをいただきました。
問題の箇所は「倭國者古倭奴國也。」というところ。
「倭国はいにしえの倭の奴国である。」と参考本に従って余り考えずに訳したのですが、
「倭国はいにしえの倭奴国である。」というのが妥当ではないかという内容です。
「倭」について「奴」について「倭奴」について、古代言語の解説などもいただいて、
興味深く拝読しました。
これを消化するには古代の中国史や朝鮮史そして、肝心の古代九州史の知識が必要で、
奥の深い世界です。
ブログという性格上、自分の思考の変化の過程を残すのも醍醐味だと思ったので、
前回の文は訂正しないでおく事にしました。
みなさんのコメントによって私の気づきが深まる過程を残したいと思います。
さあ、それでは「ぶらぶら歩き」の精神にのっとって『旧唐書』の訳を続けましょう。
『旧唐書』にある不思議な二つの国「倭国」と「日本」。
今回は「日本伝」です。
これまた唐の制度の知識が必要なのですが、またみなさんのアドバイスに期待して、
訳をしていきましょう。
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。後半には煌めく大スターたちがどんどん登場して、目を奪われそうです。
その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。
彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。
長安3年(703)、その大臣の粟田真人が来朝して国の特産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶって、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。(進徳冠…唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾りがついている)紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。
真人は経書や史書を読むのが好きで、文章を創る事ができ、ものごしは温雅だ。則天武后は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。
開元の初め(玄宗の時代・713~741)また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。
日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。その布には「白亀元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。
日本の使者は唐でもらった贈り物を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。
その副使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡(ちょうこう)と変えて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第12王子)の学友となった。朝衡(仲麻呂)は京師に50年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。
天宝12年(753)。日本国はふたたび使者を送って朝貢してきた。
(※藤原清河・大伴古麻呂・吉備真備ら)
上元年間(760~762)に朝衡を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。
貞元20年(804)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)・学問僧の空海が留まった。
元和元年(806)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。
開成4年(839)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。
教科書でよく知っている名前なので、うれしいですね。
日本からの遣唐使について、唐からみた姿が伺えます。
則天武后と粟田真人
則天武后(在位690-705)の生まれが623年なので、
粟田真人が則天武后に会った時は80歳だったという事になります。
写真の則天武后の後の官人たちの服装や冠を見て下さい。
これに対して真人は戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)ほどで、あまり高い身分でないのに、
高い位のものを身に付けていたようなニュアンスを受けました。
紫を着られるのはどんな身分だったのでしょう。
これは進徳冠。
(画像出典 昭陵博物館)
http://kohkosai.com/chinaphoto/syouryou/syouryou/page/005.htm
進徳冠を調べて行くと中国では 次代の天子になるべき太子の専用帽子だったという記事もありました。
どうやら国内なら厳罰に処せられそうな格好です。
異国の風習だからと朝廷は寛大に接したのでしょう。
倭国に比べて日本国から来た人たちへの疑いのまなざしはこうして続いたけれど、
新たに来朝した真人の人柄のよさに則天武后は別れの宴を開くほど、
真人を信任したと思われます。
これは則天武后が若いころ。(ドラマより)
おっと、美人に見とれている場合じゃなかった。
テーマは「倭国と日本国」なんです。
日本国の成り立ち
もう一度最初の部分を読み直すと、
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。倭人に比べて日本人は態度が大きかった?
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。
彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。
「多自矜大、不以實對、故中國疑焉」が原文です。
答え方にも誠実さが見られず、これまでの倭人のひたむきな印象と比べると、
「倭国が日本国になったのか?いったいどうなっているのだ?」
と中国側も「日本国」の存在を疑ったように見えます。
日本国の成り立ちは、
「倭国が日本国と名前を変えた」
「古くは倭国の東にあった小国が、いつのまにか倭国の地を併合した」
の二つが考えられた事が分かります。
後者は近畿の小国が大きくなって九州に勢力の中心があった倭国を併合して、
日本国と名乗った事を意味します。
百済の前方後円墳の副葬品の状況からは後者の説が正しいと思われます。
いったい、この時代はどうなっているのでしょうか。
サイドバーの年表に『旧唐書』から得られた年を赤字で入れ込んでみました。
630 遣唐使はじまる
632 新羅・善徳女王 即位
642 皇極天皇・35代 即位
645 中大兄皇子乙巳の変
645 孝徳天皇・36代 即位
648 倭国は新羅にことづけて上表文を送る。
655 斉明天皇・37代 即位
660 百済滅亡
661 斉明天皇が崩御
662 天智天皇38代那国で即位
663 白村江で大敗する
667 大津へ遷都する
703 日本国は粟田真人を使者とする。
倭国に関する記事は648年が最後です。
中大兄皇子の乙巳の変の頃に
倭国は新羅に仲立ちを頼んで中国との交渉を取り付けようとしています。
一方日本国の朝貢は630年の遣唐使から始まって、
703年の粟田真人から交流が深まります。
その間にあの663年の白村江の戦いが存在します。
それまでは倭国と日本国が併存していたと考えられます。
そうすると白村江の戦いの「倭国・百済の連合軍 対 唐・新羅連合軍」の前者は
厳密には「倭国・日本国・百済の連合軍」という事になりそうです。
白亀という年号
開元の初め(713~)に日本の使者が持って来た布には
「白亀元年の調布」と、日本史にない年号が書かれていました。
これについて九州王朝には「二中歴」という別系統の年号が存在する事が研究されているので、
探してみましたが、その中にも白亀はありませんでした。
参考にした本では「写し違いだ」と簡単に片づけてありましたが、
中国側はわざわざ「疑った」と話題にしているのです。
日本国は現在伝わる年号と違う年号を持っていたと考える方が合理的でしょう。
そう簡単に写し違いにするのはもったいないですね。
つづきは<百済から倭国へ>
日拝塚古墳へ
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安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て、日本語教科書を作るため、茶道を含む、日本文化を幅広く聞き書き収集して著した、「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。特に銀山開発には家康はスペインからの技術者導入のために尽力しています。スペイン国王からは難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。
興味深いことに、この本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人が聞き書きした、日本の歴史が記載され、この頃あった、古代からの日本の歴史についての考を知ることができる タイムカプセル でしょうか。これが戦国時代直後までの古代史の認識で、明治以後にはこの歴史認識は失われてしまったようです。日本大文典のこの内容は、ウィキなどにも出ていません、もう既に見ていますか。
ついでに
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 720年日本紀 と 日本書紀 は 別物という考証があります。
宜しくお願いします。
長屋天皇のこと、全然知らないんですよ。
ホント無知なのです。
白亀年号に関してですが、
『日本書紀』のニギハヤヒを訳していた時、確か十冊前後の本を照合して書かれていました。
つまり、十前後の、独自の歴史書を書ける国が存在した証ではないかと考えました。
それぞれの国が年号を持ち、王の交替時に変わっていく。
私たちが、日本国だけが存在していたという勘違いから解き離れたように、
歴史に現れない国々が沢山存在していたのではないでしょうか。
白亀年号はその一端がたまたま中国に記録されたと考えています。