2012年 06月 29日
新羅の積石木槨墓―天馬塚古墳―
新羅の積石木槨墓
―天馬塚古墳―
福岡県の嘉麻市に弥生時代の「木槨墓」があると聞いた。
「土壙墓」なら糸島市の平原遺跡でよく知っている。
木槨墓とはどんなものだろうか。
木で枠組みを作ったのだろうか。
早く見たいと思っていたら、新羅にも木槨墓があると分かった。
それがあの天馬塚古墳だ。
その豪華な宝飾品は韓国歴史ドラマ、「善徳女王」で再現された。
善徳女王は斉明天皇と近い時代を生きた人なので、この宝飾品は200年ほど古い時代のものになる。
(韓国の歴史ドラマの時代考証は当てにならない…)
この副葬品が埋納された古墳が「木槨墓」だというのだ。
今回は木槨墓を追って、ネットサーフィン。
12の小国をまとめた斯蘆国(さろ・しろ)。これが新羅(しるら)へと発展する。
都は金城。今の慶州市。
その頃の墓はどれもが木槨墓で、4世紀から6世紀初めごろの間に造られた。
平地を少し掘って石を並べて床のようにして、木枠を置いて、そこに木棺を安置。
そして石や土で塚を作って円墳にする。
積み石で木槨を覆うと「積石木槨墓」となる。
積石といえば高句麗の墓制だが、それとは系譜は異なるそうだ。
木槨墓を見たいと思ってネットをサーフィン。
新羅・慶州市の天馬塚は積石木槨墓で見学できるように保存されているので、
圧倒的に映像が出ている。
この黄金の塚は、もともと、隣にある更に大きな古墳を掘る前の事前準備として、
保存方法などを研究するために試し掘りしたのが、大発見につながったという。
副葬品は1万点に及ぶ。
「天馬塚」の名は副葬された馬具の所に書かれた「天馬」の絵から付けられた。
馬具の一部(白樺)に描かれた天馬
(画像出典)
http://www.busantabi.com/content/basic.asp?m_idx=12&s_idx=64
もともと新羅の古墳は日本人の考古学者によって調査研究が始められた。
これが木槨墓。
画像出典 http://www.lieto.co.kr/?document_srl=170581
中央に王か女王が安置され、身に着けたアクセサリーがそのままの位置に残された。
この木槨墓を覆って石が積まれた。
画像出典「忘れへんうちに」より
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/01/blog-post_27.html
(考古学的なアプローチがされている、お勧めのページ。)
石の重みでさすがに木槨墓はつぶされていた。
土を取り除いて出現したのが下のような宝冠のたぐい。
メッキでなく、純金。これには勾玉が沢山ぶら下がっている。
副葬品の画像出典
http://www.lifeinkorea.com/cgi-bin/travel2j.cfm?TravelID=217
これは5世紀後半のものだ。日本ではこんな時代。
451 倭王済が遣宋使
462 倭王子興が遣宋使
478 倭王武が遣宋使
479 雄略帝が末多王を百済王に任ず
479 倭国は高句麗を攻撃
480~ 装飾古墳が出現
外観はこのような円墳。
画像出典
http://www.pusannavi.com/miru/1069/
内部は見学出来るようになっていて、その様子は最初に挙げたサイトが詳しい。
副葬品の豪華さに目を奪われるが、
これが「積石木槨墓」だというのを記憶しておきたい。
その後、新羅では「横穴式石室」が作られるようになる。
今コメントで話題になった嘉麻市の木槨墓はどのようになっているのだろうか。
保存されているのだろうか。
新羅の木槨墓と比較出来る日が楽しみだ。
嘉麻市の方は弥生時代だから、もっと時代が遡るのだ。
さて、新羅にこだわるのには訳がある。
日本書紀のこの一文の真実が知りたいのだ。
秋9月5日に、仲哀天皇は群臣たちを召して、熊襲攻撃について協議させました。その時、皇后に神が懸かって神託がありました。
「天皇よ、どうして熊襲が服従しないのを憂うのか。そこは例えれば、肉のついていない背中のように痩せた国であるぞ。兵を挙げて討つほどの国であろうか。
この国より宝がある国がある。例えれば、乙女の眉のように弧を描いた国で、我が国の津に向き合った所にある。眼もくらむ金・銀、美しい色が沢山その国にはある。その名をタクブスマ(タクの木の繊維で作った布団が白い、その白色の名を持つ)新羅の国という。
もし、われを良く祭れば、刃に血を塗る事なく、その国はおのずと降服するであろう。また熊襲も服従するであろう。われを祭るには、天皇の御船と穴門の直(あたい)ホムタチの献上した大田水田を供えよ。」
と言いました。天皇は神託を聞いて、疑いました。
(日本書紀 仲哀紀)
これは8世紀の日本人の新羅観に過ぎないのだろうと思っていたが、本当に金銀財宝の国だった。(・.・;)
そして、この仲哀紀の辺りは読みこむと矛盾に満ちている。
それを解くヒントが吉野ヶ里の近くに一つある。早く行きたいのに時間がない。
まだまだ仲哀紀の謎解きの旅の目的地は遠い。
るな探偵は気が多過ぎて、二兎以上を追っている…。チョーやばい。
古墳(王陵)公園・天馬塚 -伽耶・新羅の旅-
http://inoues.net/korea/korea_tenma.html
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実在の善徳女王と真徳女王を1人に併せていますが、大きな流れは歴史通りで、金春秋は『書紀』にも登場します。ピダムの乱や、伽耶の王族の血をひく金庾信の活躍などもドラマ事立てではありますが実際に起こったこと。
しかも白村江の敗戦など九州王朝滅亡に繋がる大事変の時代なので、古代史の勉強にもなりますね。是非DVD見てください。
百済の攻勢に悩んでいた金春秋は、高句麗に支援を求めますが逆に幽閉され、次に647年倭国を訪問しますが、拒否されたようで、唐に救いを求め、唐・新羅の連合が成立します。
651年には新羅が諸制度を唐制に変えた象徴として、使者が「唐の服」を着て現れ、倭王は激怒して追い返した記述が『書紀』にあります。
この時に新羅を支援するか、中立でいれば日本の歴史は大きく変わっていたはずです。(日本の首都は博多になっていたかも・・・)
しかし全編見た訳ではないです。根気が続きません…。(汗)
大枠が歴史通りだとはありがたいです。
素環頭太刀などが、普通に出て来てどっきりします。
美術班は古墳の出土品をずいぶん研究しているなと感心したり、
日本のドラマで、あれだけの威身具を俳優さんたちに着せる事が出来るかなと、思ったりしています。
キムユシンのお墓もすぐ近くにあるようで、慶州の古墳は面白そうですね。
百済の将軍がケベクでしょうか。
ドラマの噂話が歴史の勉強になるので、面白い世界です。
651年の話など全く初耳です。倭王は怒りっぽかったんでしょうか。中国の使者とも上手く行ってないですよね。
この時代は面白そう。
またいろいろとおしえてください。
嘉麻市の木槨墓は私にも詳しい事は判りません(T_T)
『鎌田原(かまだばる)弥生墳墓群』で検索頂いたら画像が小さいページが見つかります。
http://www.citydo.com/prf/fukuoka/area_chikuho/kenbun/rekishi/kaho004.html
↑とか
ただこの遺跡埋め戻されているのかも(詳細が判りません)
小さな町ではコレで精一杯なんでしょうけど…。
名称が覚えられなくていたました。紹介のページ、見ました。
いかにも弥生時代らしい感じですね。
木槨墓と言っても、新羅とは全く別次元みたい。
こりゃあ、おっしゃる通り、埋め戻されているかも。
なにせ、古墳や遺跡はよほど下調べしないと、現地に行くのも一苦労、遺跡を見つけるのも一苦労という世界ですから…。 (・.・;)
ルイ http://plaza.rakuten.co.jp/egbalta44/diary/201409030000
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