2012年 07月 05日
大宰府・神籠石 コメントまとめ 1
これは、分かりやす~い!
九州にあった王朝の実態解明に最近、興味が湧いてきましたが、
先達たちはかなり研究が進んでいて、今や細かい所を詰める段階になっています。
初心者には道のりが遠いなと思っていたら、きりんさんが助太刀コメントをくれました。
今回は、「九州の倭国」の研究に欠かせない「太宰府」と「神護石と山城」についてです。
「大宰府」は白村江の戦い以前に、九州王朝が建設した羅城を配した城塞都市であり、
かつ我が国最古の風水都市だと思っています。
日本書紀の記述によると、大野城(オオノノキ) と、基肄城(きいじょう)は
天智天皇4年( 665年) に大宰府防衛のために
大野城山と基山(きざん)に築いた日本最古の朝鮮式山城であり、
同時期に水城や大宰府という大規模な都市までをも築いたとあります。
しかし、これはルナさんの言うところの「日本」 最古の古代山城であり、
「倭」最古のものは更に古くから多数存在するというのが私の考えです。
北部九州に集中的に点在する「神籠石」型古代山城こそが、倭の城であり、
それらは大宰府を中心に配されていたと考えています。
日本書紀にある、大野城と基肄城と水城ならびに大宰府の建設工期の異様な短かさは、
もともとその地に倭が築いていた神籠石型山城の羅城のベースがあってこそ
可能な短期改修工事だったのではないかということです。
大宰府の東側を守る羅城の一環である古代山城 が阿志岐(あしき)の宮地岳で
1999年に発見されましたが、
こちらは日本による改修工事が成されなかったために記紀に記されることもなく、
ほんの13年前まで歴史の闇に隠されたままとなっていました。
おそらく、もともと倭の都市だった大宰府に、白村江の敗戦後に進駐してきた日本軍が、
補強改修した神籠石型の城々( 大野城、基肄城、 水城)のみが
日本書紀に 「日本みずからが一から初めて築城した城」として改竄されて記され、
それら以外の倭の古城は歴史の闇に消えていった。
そして、日本側の記紀に載らなかった城々が
後世に謎の神籠石とよばれるようになったものと推測しています。
日本は朝倉から倭の大宰府に向かい進軍しますので、
倭にとっての仮想敵国・日本への抑えであった阿志岐城=蘆城
(※攻める側からすれば、まさに「悪しき城」)は、
進駐軍日本にとって、 水城や大野城のような改修工事の必要性などなく
打ち捨てられてしまっていたのでしょう。
因みに、朝倉に奈良の地名と共通する地名が多いのは、
普通は、大和朝廷の東遷の証とされますが(私も そうだろうとは思っていますが)、
逆転の発想をすれば、倭と対峙した日本が大宰府に入れず、
この朝倉に長く駐屯した為に奈良の地名を当てはめて呼んでいた為かもしれないなとも思います。
日本書紀などによると、
①(527年 - 528年) 磐井の乱
乱後、磐井の息子葛子が死罪を恐れて糟屋屯倉 (かすやのみやけ)献上
②(536 年)に那津のほとりに官家(那津官家:なのつみやけ)(遠の朝廷:とおのみかど)を設置し、
九州支配と外交の役目を果たす
③(562年)任那を失地
④(609年)には筑紫大宰(つくしの おほみこともちのつかさ)の名が登場
⑤(618年)唐、建国
⑥(660年)百済滅亡
⑦(661年)倭が百済救済軍・第1次派兵
⑧(663年)倭が百済救済軍・第2次派兵するも、白村江の戦いにて大敗。
このとき筑紫君薩夜麻が唐軍に 捕らえられて、8年間捕虜として唐に抑留
⑨(664年)行政機能を内陸の大宰府に移転。大宰府と水城を築く。
⑩(665年) 大野城(オオノノキ)と、基肄城(きいじょう)を築城
⑪(671年) 筑紫君薩夜麻が帰国
という順で事態が進みます。
この中の
①の磐井の乱の顛末は、磐井の息子葛子の首をとるまでには至らず、
筑紫王朝が存続した事実を表しています。
③任那を失地 これは、倭にとって日本の圧力が増したために、
新羅方面と日本方面の二正面作戦が辛くなり 、戦線を縮小させた結果なのかもしれません。
⑧倭が白村江の戦いにて大敗。
このとき筑紫君薩夜麻が唐軍に捕らえられたことを好機に 日本が倭の大宰府を目指し侵攻を開始。
⑨行政機能を内陸の大宰府に移転。
とあるのは、日本が進駐軍として大宰府を占拠したことを示す。
と同時に倭の水城の改修補強も開始。
⑩大野城と、基肄城を築城。
これも、倭の築いていたものを改修し、日本書紀 には日本初の朝鮮式山城を日本が築城し完成と記す。
⑪筑紫君薩夜麻が帰国
主が日本となった変わり果てた大宰府の姿を目の当たりにする。
といった感じでしょうか。
きりんさん、ありがとうございます。
数年前から、考古学界では神籠石を朝鮮式山城の範疇に入れて説明がなされるようになったのですが、
本当にそうなのだろうかという疑問が私の中では消えていません。
神籠石については何度か書いていますが、
「神籠石という盤座と山をぐるりと囲む八葉石」をひっくるめて「神籠石」と呼ぶようになりました。
(⇒高良山神籠石)
これらは素人が見ても、明らかに山城の機能を持っていないので、
朝鮮半島の堅固な城壁と比べると、朝鮮式でひっくるめられても、
「はい、そうですか。」という気分になれません。
きりんさんの説では「九州の倭国」と「近畿の日本国」との関わりの中で、
「神籠石と八葉石」はもともと「倭国」の城で、それを基盤にして「日本国」が手を加えたのが
「大野城と基肆城」ではないかという事です。
(これでいいのかな。違ってたら、またコメントください。)
なるほど、これは面白い。
すっきりしそう。
これからの逍遥の参考にさせていただきたいと思います。
ところで、九州では今年の梅雨の大雨による被害が各地に及んでいます。
7月3日の大雨で、「杷木神籠石」が6か所破損したそうです。
これは国史跡のために、修復の着手には数か月かかるそうです。
筑後川では例年梅雨の中期と末期と必ず水量が増して、被害が出ます。
梅雨明け前の大雨が小雨になりますように。
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深く掘り下げた記事ですね。興味深く読ませていただきました。
神護石について詳しくないですが、私の暮らす佐賀にも帯隈山神護石という遺跡があります。考古学調査による報告書では、広範囲に土塁と石塁が確認されてますが、はっきり言ってあれだけで防御できるとは思えません。ただ、調査所見では、中央政府の命に従って施設を築いたけれど、規模は最小限に抑えたのでは・・。という内容だったような記憶が。つまり、苦役を押しつけられた地元氏族は、命に従うが、最小限に、それが機能しなくてもいいから・・。ということでしょうか。このような解釈も面白いですね。
帯隈山神籠石、初めて知りました。
早速地図で見ると、金立の近くにあるのですね!
金立といえば、徐福伝説の本山たる所。
その近くに神籠石とは。
神籠石の字からは、「神が籠(こも)る石」という事なので、盤座(いわくら)信仰があったのではないか。
だから、戦いの為の城ではなく、祈りを基盤とした神域ではないかと考えるようになりました。
まあ、妄想の段階ですが。
これからも、いろいろと教えてください。 (^-^)/









