2012年 07月 21日
丸ノ口古墳公園(3)白石古墳群・磐座と古墳の謎
丸ノ口古墳公園(3)
白石古墳群
磐座と古墳の謎
さて、巨岩を久し振りに見て、満足して下りて行くと、あれ?
ここにも古墳がある。
いったいどうなっているのだ。
しかも、入口に扉が付いている。きっと重要なのだろう。
開口しているなら覗かねば。
格子の隙間から写真を撮ると、こんな石室。
さらに、もう一つ古墳があった。
暗くて見えないので、写真を撮る。
この石室はさっきのよりずっと強固に造られている。日拝塚古墳と見た目も近い。
ここは「白石古墳群」という事が案内板で分かったが、
もうどれがどうなのか、各古墳の名前が分からなくなってしまった。
6世紀の後半のものだそうだ。
Ⅲ群1号墳は入口の前にテラスを作って、土器を供えて、
その中には皮袋の形をした水筒のような土器もあったという。
いったい、この丸ノ口古墳公園はどんな構造になっている?
改めてイラストマップを取り出した。
このマップを見ると、私は一番右の⑩からスタートして、
③-④ そして地図では木が書いてある所に登って②-①と移動したらしい。
マップの中で、赤い丸は移築したものという事だ。
そうすると先程、足元にあったこの露出した石室は移築した物だろうか?
その長さは90センチほどで、最小のものらしい。
この日はこうして珍しい古墳公園に満足して帰宅の途についた。
今、振り返りながら、古墳と磐座の関係を考えた。
古墳群がとても見晴らしの良い所に造られて、
すぐ上の磐座が祭祀遺跡だとすると、気になる事が一つある。
それは何故、祭祀地に古墳を隣接して造ったのだろうかという問題だ。
古代では祭祀点と埋葬地は別にするのではないかという考えを私は持っている。
(忌宮神社で、仲哀天皇の殯斂地(ひんれんち)が太陽観測点ではないかと推測したのは、
思想的に禁忌を侵す事になるので、逆に隠す所にもって来いだったと考えたからだ。)
だから、磐座と古墳が至近距離だという事に疑問が残る。
イヤシロチにケガレが置かれるのだ。
幸いに築造の時期が分かっている。
6世紀後半という時代を考えると、磐井の乱後の混乱期だったろうと思われる。
この町でも古墳は小型化した。
古来の祭祀形態が排除される対象になった可能性だってゼロではない。
考えるに、この古墳群の被葬者は磐座を守り続けた一族ではないだろうか。
一族というイメージは、90センチという石室のサイズから生まれた。
90センチとすると、埋葬された子は2歳未満だったと思われる。
幼い子供の為に丁寧に石室を造る余力があったのだ。
しかし、「神ノ前」を離れられない。
そこでタブーを侵して、聖地に埋葬した。
そんな妄想が生れて来た。
「神ノ前」とか「後野」とかいう地名から、
ここはもっと広い範囲の祭祀圏があったのではないかと想像された。
たった一つの古墳群でこんな妄想を書く事が出来るのはブログならではだ。
これから先、いろいろと見て行く中で、自分の妄想を礎として、時には反省して
古代世界の再構築に向かいたい。
この那珂川町は古代の十字路の中心点だという評価がある。
(町で貰える、『なかがわまちエコミュージアム』より)
西に行けば伊都国や末廬国へ。東に行けば大宰府。
北は袖の湊。南は吉野ヶ里。
古代のキーポイントを結ぶ立地だ。
大宰府がまだ湿地だった頃は、こちらの方が重要な地点だったに違いない。
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新しい古墳の探訪記を読ませていただきながら,
ずっと筑紫郡那珂川町というのは,福岡市からずいぶん距離の隔たった田舎だというイメージを持っていたのです。
ところが,初めて知り合いに,那珂川町の安徳台遺跡に連れて行ってもらった時,思いのほか近く,春日の南側である事に驚きました。
よそ者ゆえの,悲しさです。
標高は意外に低いのですね。
安徳台遺跡に行かれたのですか?それは幸運ですよね。
安徳台は個人の所有地なので、訪問していないし、ブログで紹介も出来ません。
この「安徳」という地名でさえ、安徳天皇のゆかりの名というので驚きです。
地名の由来などはいつか紹介したいと思っています。
翌日現地で説明会が開かれる旨の記事があり,知り合いに連れて行ってもらったのです。
▼わざわざ足を運んだのは,
ガラス製の装身具(弥生中期)が発見されたという情報が載っていたからです。
私にとっては,初めての体験で,普段疑問に思っていた事を,いくつか係員に尋ね,それまでの疑問が氷解しました。
また,遺跡の立地条件についても,学ぶ所がありました。
・遺跡は偶然見つかった訳ではなく,辺り一帯は複合遺跡で,これまで墓地が発見されていなかったために,ほぼこのあたりであろうとの予想のもとに掘った所,甕棺が出土。
ところが,年末の朝日新聞の発掘情報を見てビックリ!!
何と,インド製の文字が。
現地説明会にはなかった情報です。(詳細未確認ゆえ,省略)
▼しかし,大きな問題が。
同じようなものは,過去飯塚の立岩,糸島の平原でも出土し,三例目。
間接入手を考える方がほとんどですが,私は直接ではないかと考えているのです。
・その事は,大野晋氏が唱えていた古代のタミール語との関係です。
一緒に出土した人骨のDNA鑑定をしてみれば,全ての答えが出るように思われます。
▼当時,外洋を航海出来る船はあったのです。
・縄文時代の倭人が,既に中南米まで航海している事を考えると,古代(弥生時代)のインド人がやって来ていても,おかしくはありません。
・しかるべき船があり,風と潮の知識さえあれば,やって来れるのです。
まさかと思いますが,三つの遺跡の被葬者の女性は,いずれもタミール人たち。
というような事があれば,これはまさに“インド人もビックリ!!”です(笑)。
(終わり)
・垂仁天皇の時代(紀元前後),天皇に命じられて,常世の国に非時香菓(トキジクノカクノコノミ)を探しに行ったという,田道間守の話も参考になります。
(1)天皇は,その情報をどこから得たのでしょう。
(2)帰国した時,天皇は既に亡くなっていたというのですが,
何と帰り着いたのは肥前の伊万里だというのです。
・なお,この果物はこれまで橘の事だとされてきましたが,
『古事記』の記述(鉾,八鉾)を分析した結果,“バナナ”だという説が,にわかに注目をあびました。
安徳台遺跡などからインド文字が出土していたとは!!!
町が出したパンフレットを見ましたが、書いていない。残念です。
「ビーズの作り方・三雲井原遺跡」(サイドバーからどうぞ)に書いていますが、出土した紫のビーズはインド辺りの製作だと判明しています。
大野晋氏の本で、甕棺や巨石文化を知って、タミルには興味を持ちました。
浮嶽神社の境内の寺はインド人の僧侶が来ています。(サイドバーへ)
中国や百済に染まらない祇園精舎の教えがダイレクトに来ているんですね。
時代は新しいのでしょうが、受け入れる文化もしっかりあったのが分かります。
中東と日本の間の船の運航期間は土星の周期と同じだったそうです。
エジプトの太陽の船を見れば、その技術で日本に来ても何ら不思議でない。
インドで出会った演歌風のインドの歌。思い出しました。
長くなるので、つづきは記事にします。
というのは,
【出土したガラス製装身具がインド製】だという説明が,
という意味であって,
文字そのものを書いたものが,出土したという意味では,ありません。
文脈の関係上,主語を省略してしまった結果,誤解を招いたようで,申し訳ありません。
【インド製という文字】とすべきでした。
◎浮嶽の件,あらためて調べてみます。
突然申し訳ございません。
先日丸ノ口古墳に行ったのですが駐車場が分からず路上に停めてちょっと見るだけで帰ってしまいました。
手前の駐車場は学校の駐車場ではなく古墳公園の駐車場なのでしょうか?