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儺の国の星・拾遺 (1)序文を読む 1


儺の国の星・拾遺 1
序文を読む 1
 

前回、那の国の星々の名が那珂川町の旧家に伝わる事情が分かりましたが、
今回はさらに詳しく見て行きたいと思います。
『儺の国の星・拾遺』の序文ですが、長いので、少しずつ紹介して行きます。

序文
本書はさきに昭和57年3月31日に刊行されました『儺の国の星』の続編であります。

那珂川は太宰府の近郊に在ったことから、編暦の官人の草稿が旧家に保存されておりました。しかるに醍醐帝天慶2(939)年の藤原純友の乱と後陽成帝天正14(1586)年の島津義久(1533~1613)の乱により、多くの古書が散逸しました。

それでもなお明治38(1905)年7月26日の大風大水までは庄屋の土蔵の中の唐櫃(からひつ)や文庫の中には、太宰府からの疎開の書類写本が保存されていたのでありましたが、この時の水禍の災害があまりにも甚大であったがために、その復旧工事に盆を返上しての日夜の努力が彼岸まで続いたとのことでありました。

漸く秋分に入って土蔵の中に風を通した時に、意外な雨もりで書類は水気を吸い込んで、ついに開きも離しもかなわず、盥(たらい)に水をはって、これに浮かべて少しづつはがしては筵(むしろ)の上に広げて乾かしたのでありますが、何分にも九百年近い古書であったがために修理不能のやむなきにいたりました。

幸に真鍋勝次(文化14年4月8日~明治42年4月23日 1817~1909)に幼少の頃から侍して、よく家伝の古書を披見(ひけん)していた真鍋利市(明治4年8月12日、昭和22年8月16日、1891~1947)がその内容を記憶しておりましたので、

ここに何とか「晉書天文誌」と昭和39(1964)年、初版のA.Becvar(ベックバール)の『アトラス ボレアリス エクリプテイカリス アウストラリス』の星座図をもってその口伝を確かめることができました。

真鍋勝次は明治維新後もなお那珂郡の方冊(ほうさく)を作製して、百姓の歳時月令に資した最後の人でありました。

昔の國暦は現行の太陽暦ではなく、太陰暦に二十四節季、五十六節気、或いは七十三節期を配し、しかも気候の早晩を閏月の適所挿入によって調整するところの天文気象暦でありました。

餘日延年、即ち1年の太陽暦日と太陰暦日の差を秋分に定め、これと同じ日数が過去何年前にすでに存在していたかを付表から引き、その年の天気地気の記録を参照して立冬までに編纂を完了するのでありまして、真鍋利市は常に机辺(きへん)に正座して祖父真鍋勝次の仕事を見守り、自ら検算を助けました。

早くから窮理の術、即ち現在の球面三角法と天文力学を修め、祖父はその英才を嘱望して、孫ながら、真鍋勝三郎(文久2年12月15日~昭和25年3月26日、1862~1950)の養子に選びましたが、後、前町長真鍋勝次(明治43年2月11日~昭和53年7月28日 1910~1978)の出生におよび、これを独立させて大学卒業まで学費を送ることに定めました。

察するに肥前長崎の天文学者西川如見(1648~1724)に幾代か前の先祖が洋書を求めてこれを習っていたものとみえます。

西川如見は暦法に季節を入れることを主張して江戸幕府に抜擢されました。東山帝元禄2(1689)年に江戸本所深川に渾天儀を置き、渋川春海(1639~1715)は京都土御門に代って暦書編纂の事業を開始しました。

二百十日を入れるべき百姓漁師の上申をうけつけたのは、靈元帝寛文11(1671)年からのことと伝えられます。
(つづく)
那珂川町が太宰府市に近いという事で、大宰府で使われた文書の草稿が
旧家に保存されているような環境があった訳です。

藤原純友や島津義久の乱で多くの古書が散逸したと書いてありますが、
私が逍遥している間も、大宰府政庁跡では純友が建物を燃やした話を聞いたし、
志式神社や伊野天照皇大神宮辺りでは、
島津の兵隊たちが神社を焼いて古文書も焼失したり、
鐘を持ち去ろうとして具合が悪くなったという話に出会いました。

古文書を焼く事はその歴史を抹殺するに近い暴挙ですよね。

那珂川町ではそれでも残った写本などが、明治38年の水害で駄目になってしまった。
その日付が7月26日と言う事なので、今年の7月12日~14日前後の水害を思うと、
梅雨前線や台風の脅威はいつの時代も思いがけない地域を襲うのが分かります。

風水害のために真鍋家でも蔵書が修理不能になったのですが、
祖父の手伝いをしていた利市が内容を記憶していて、
昭和になって出版された星座図で口伝を確かめたという事です。

明治38年の水害から昭和39年の初版まで、よく途絶えずに伝わったものです。
(これって、すごい内容が日本に伝わっていたんだ。900年以上も前の情報なんです。)

毎年作成される暦は太陰暦で、気候の早晩を閏月の挿入で調整するという事です。

この閏月(うるうづき)で思い出す事があります。
10年ほど前に太陰暦のカレンダーを2年ほど使った事があります。

確か四国・土佐で作られ始めたカレンダーなのですが、
漁業の人の間で漁に役立つという事で、口コミで広がりました。

これが婦人服の生産や販売(バーゲンの時期の見極め)などにも役に立つので、
さらに広がって行ったそうです。
旧暦のカレンダーという物は、閏月の挿入場所が、寸前にならないと分からないものだと書いてありました。

夏の長さや短かさなどは、ここに反映されるのだそうです。

私はそれまで、閏月は4年に一度、定期的に挿入するものだと思っていたので、
目からウロコでした。

それにしても、球面三角法なんぞを何に使ったんでしょうか。
(ネットで調べると、天文や航海術、そして四柱推命などに必要らしい。)
やはり海を渡るには必要不可欠なんですね。

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江戸後期の渾天儀 画像出典
http://www.e-tmm.info/syuuzou/kontengi.htm
(つづく)

地図 那珂川町と太宰府市







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by lunabura | 2012-08-11 00:19 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)
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