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儺の国の星・拾遺 4・天明3年 浅間山の噴火の年の暦づくり


儺の国の星・拾遺 4
序文を読む 4

天明3年 浅間山の噴火の年の暦づくり
 

さて、序文の残りの部分です。まずは読んで行きましょう。

祖先は陰暦12月13日に威儀を正して百姓家の一つ一つに、来る年の朔(さく)と望(ぼう)の干支をふりがな付きで一枚の和紙にしたためて直接届けておりました。

明治初年で戸数37でありましたから、少なくともこれだけの分を楷書でしたためておりました。百姓の日々の生活と行事がすべてこの方冊で仕切られて、農事歳時にいささかの支障も無いことを期待せねばならぬ所でありましたから、その編集にはまさに斎戒沐浴しての一月半余の厳粛な仕事が離れの一室で人気を避けて行われたと聞きます。

メトン周期をどうやって手計算したのか、未だに謎ですが、
斎戒沐浴してまで、一室にこもって暦造りをしたというのですから、
これは神々への祈りと同じレベルの取り組み方だった事が伺われます。

こうして出来た新しい暦は神前に供えられ、古い暦は焚き上げられました。
これを「お火焚き」と言い、那珂川町の裂田神社や伏見神社の神事となって、
現代に伝えられています。

この話の続きは
裂田神社(2)「おひたき」の語源はギリシア語の「キタヒ」?
http://lunabura.exblog.jp/16314603/

に書いています。
(この記事のイラストをペテルギウス流星群のHPに掲載したいという依頼があって、
こんなものでよければと快諾しましたが、HPは出来たのかな?)

話がずれそう。元に戻って続きを読みましょう。
光格帝 天明3(1783)年癸卯歳は、この昭和59(1984)年と同じく冬は寒く雪は稀(ま)れで、春から夏にかけて雨少なく気爽やかで、秋は白露(はくろ)の前から涼しくなりました。

この天気は例年通りの順調な日取りでありました所、7月7日(陽暦8月5日)に信濃浅間岳の大噴火がはじまり、ついに秋落ちの凶作が東国を襲ったのでありました。

今年は閏10月が陽暦11月23日から12月21日まで小月で挿入されております。翌天明4(1784)年甲辰歳は閏正月が陽暦2月21日から3月20日になっており、秋も冬も例年より長くなることを示しております。

祖先は連日の如く赤く燃える夕空に驚き、まず近い先例を手持ちの記録から繰り出しました。差し当たりの目安が201年2486月の差0.63692日でありまして、当時から現代にくだれば、今年になるのでありますが、前に遡れば正親町(おほぎまち)帝 天正10(1582)年、羅馬(ローマ)使節派遣と西洋新暦改制の年でありました。

翌年閏正月は陽暦2月23日から3月23日の間に挿入されております。

この暦制の革命に加えて、あの天正14年の乱世による史料の喪失がやむをえぬ時世とは言いながら編暦に多大の支障を来(きた)したのであります。

そこで1021年12628月、差0.00310日をもって淳仁帝 天平宝字6(762)年の先例に鑑(かんが)み、閏12月1日から来年度の暦をはじめました。即ち冬長く残りて春来ること晩(おそ)しと案じたのであります。

祖先は正月が一月先になり、一同を待たせたことになりましたので、取り敢えず晒木綿(さらしもめん)の袋に精白した糯米(もちごめ)一升を納めて戸別に持参し、己れの不徳不明を陳謝して廻ったとのことでありました。

地元の天気のことならばいざ知らず、遠い他国の山燃えのこと等、まことに不慮不則なりとして鄭重(ていちょう)な挨拶(あいさつ)に恐縮したとの後日談でありました。

夕陽の赤きことを年改まりても尽きることなく、気は冷涼でありましたが、水温はさしたることなく、例年通り、一月に籾種(もみだね)を水に浸けて苗代を起したおかげで幸いには飢饉に至ることなく、一同何とか平年作までに持ちこたえたことを喜び合ったと聞きます。

氷雪の解けること晩(おそ)きとも地水の上るは遅きことなしと諭(さと)して、里人の心を安んじたことは長く世の人の話になりました。
(一部、読みやすくするために変更しています)

読んで行くと、時系列がいくつかあって、よく分からなくなってしまいました。
そこで、まずは浅間山が噴火した天明3年について検索すると、
次のイラストがヒットしました。

c0222861_110644.jpg

浅間山の噴火 天明3年 (画像出典は下記より)
http://www.asamaen.tsumagoi.gunma.jp/eruption/index.html

江戸時代の噴火なので各地の史料に記録が残り、上記のサイトから引用すると、
噴火は旧暦4月9日(5月9日)にはじまりました。はげしい爆発が起こり、その後噴火が続いて灰が降り続きました。噴火はしだいに激しさをまし、7月1,2日(7月29,30日)より後は軽井沢から東の空が真っ暗になるほどでした。7月7日(8月4日)には軽井沢の宿の家々は赤熱した石が落ちて焼けたり、つもった軽石でつぶれたりしてしまいました。

となっています。
c0222861_1122697.jpg

旧暦7月7日は大噴火だったことがこれで確認できました。
遠く離れた福岡でも連日、夕焼けを観測したために、祖先が驚いて記録を調べました。
この祖先とは江戸時代の人だと分かります。

先例を調べる目安が201年と書いてありますが、理由は私には分かりません。

天明3年の201年前は天正10年で、すぐ後に西洋新暦改制が行われて
比較が難しくなった上に、天正14年の乱によって、史料が失われました。
豊臣秀吉による九州の役の時代ですね。
博多も炎上して、櫛田神社の御神体が那珂川町の伏見神社に避難した話が
伝わっているので、真鍋家もその騒乱に巻き込まれたのでしょう。

その櫛田神社の御神体については
伏見神社(2)櫛田神社から疎開した須佐之男社の御神体
http://lunabura.exblog.jp/16345830/

に書いています。

天正10年の史料が無いので、祖先は更に古い天平宝字6(762)年を調べて、
ようやく翌年の暦を決定しました。

その結果、なんと「閏12月1日から来年度の暦をはじめました」となっちゃいました。

これは、翌年のカレンダーを貰った方からすると、
年始が「12月」からスタートしているという驚きの暦だったのです。

♪もう幾つ寝るとお正月♪と待っていた「12月」のあとに
また「閏12月」が来るのですから、楽しみにしていた子供たちもがっかりですね。
あの世の御先祖さんたちもがっかりです。
(昔は盆と正月に先祖が帰って来てたんです。)

お正月が一か月先になったのは自分の不徳の致すところと言って、
祖先は貴重品だったもち米を配って回ったという事ですから、
その気構えに驚かされます。

しかし、この暦のお蔭で稲作は順調な結果をもたらしました。
もし「閏12月」を年始に入れなかったら、寒すぎて稲が育たずに凶作になった事でしょう。
暦が村の農事に大影響を与えるのですから、責任ある厳しい作業だったのですね。

こうして暦は農事に活かされたのですが、
本来の目的は祭祀の日取りを決定するためのものでした。

この千年以上の観測の記録と智恵は真鍋氏が「地震雲」を世に出す礎となりました。
気象庁では今でも地震雲は認めていないそうですが、
311の前後の地震雲がネットに多く寄せられて、いろんな方が自分で検証する時代になりました。






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by lunabura | 2012-07-30 11:05 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)
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