2012年 07月 28日
儺の国の星・拾遺 5・物部氏の星の観測法
儺の国の星・拾遺 5
緒言を読む
物部氏の星の観測法
それにしても、代々、どうやって星々の名前を覚え、
その星から年号が分かるのでしょうか。
虎の巻はあったのでしょうか。
今回は、「緒言」からその原本と星の観測法を紹介します。
原本
本書の原本は「石位資正」(せきいしせい)の名で藤原隆家(979~1044)が後朱雀帝 長暦(1039)年に大宰権帥(ごんのそち)に再任された時、九州に在って星暦についての古今の見聞録を編纂したものでありました。
執筆の契機は、三條帝長和(1014)年から後一條帝寛仁3(1019)年に大宰権帥の任期中に刀伊(とい)の入寇に遭い、大陸の夷狄(いてき)の偉大なる天文知識に感銘してからのことと伝えられます。
逸話ではありますが、この頃から南辰(なんしん・ここでは南十字星)が有明海の彼方に沈み行く光景が都府楼から遠望されたのが、今にして大宰府の暦書を収録しておかねば永久に世人の関心が星空から離れて行く気配を憂慮しての企画でありました。
「石」とは「星」の事です。
この本は大宰府に赴任した藤原隆家が九州に残っている星暦を書き留めたものなんですね。
この時代に刀伊が襲ってくる大事件が起こっていますが、
よく知らないので、wiki からあらすじを抜いて見ました。
対馬への襲撃
寛仁3年(1019年)3月27日、刀伊は賊船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。
壱岐への襲撃
賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。
理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。
そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。
筑前国怡土郡への襲撃
その後、筑前国怡土の郡に襲来、寛仁3年(1019年)4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を荒らし回った。
これに対し、大宰権帥藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。たまたま風波が厳しく、博多近辺で留まったために用意を整えた日本軍の狙い撃ちに遭い、逃亡したと記されている。
刀伊の入寇は単語だけ教科書に載っていたような記憶がありますが、
この福岡では大変な戦いだったのですね。
長崎の原爆を描いた小説に、当時一番恐れられていたのが
「ムクリ・コウクリ」だという一文があったのですが、
これは「蒙古・高句麗」つまり「元寇と刀伊の入寇」を指していたんだと
今頃つながりました。
それにしても敵が福岡に上陸したとは…。
敵を撃破した隆家はその後、異国の天文知識に感銘して、
自国の天文の見聞録を見直してこの本が成立したというのも、不思議な縁です。
この時代は南十字星が都府楼から見えていて、
有明海に沈んで行くのが観測されたというのですから
想像もつかない古代の静けさと光景です。
歳差運動によって、星の小さな変動が1000年も積み重なった今では
もう見えないのでしょうが、
明治時代には脊振山から南十字星の一番上の星γ星が観測されたそうです。
南十字星については
南十字星の和名 古代の呼び方
http://lunabura.exblog.jp/16129802/
に書いています。
「緒言」に戻りましょう。
「石位資正」の内容でありましたが、源順(みなもとのしたごう)(911~983)が朱雀帝 承平7(937)年に上梓しました倭名類聚鈔に則した記述であったらしく、漢名の星宿に項目を分けて、これに日本の星の古名を列挙し、要すれば由来の説明を摘記略述したものでありましたから、星座を拾って夜毎に見上げておれば、幼少といえども星名を暗記するには容易であったと思います。
中国の星と日本の星の対照表ですね。それに解説のメモが付けられた。
日本独自の星の名があったんだ。
「幼少といえども星名を暗記するには容易」と書いてあるけど、
子供だからこそ覚えられるんだよね。
(小学校の先生が子供は記憶力がいいと何度も言ったのが今頃立証されている…)
それでは星をどうやって覚えたのでしょうか。
続きを読みましょう。
父親は筆者(※大覚)を田の畔(あぜ)か石の上に立たせて、後ろから肩越しに右手の甲を手で握って星の名を教えました。夜の8時か朝の4時に時間を定め、しかも子午線の上にある星だけを繰り返して説くだけで、その他は一切言及しませんでした。
これが昭和7年(1932)年から同15(1940)まで続きました。
考えてみれば、頭上の天頂を通過する南北の方位から東へ15度外れた星は1時間後には子午線に必ず乗ってくるものであり、西へ15度外れている文は15日前には必ず見たものでありましたから、まさに季節の移り変わりについての予習復習が8年間も続けられたのであります。
後年筆者が宇宙科学を志す素地がこの頃に出来上がりましたが、今でも星座表で前後左右の星の並びを聞くたびに、あの時その時の季節を思い出します。
これを初めて読んだ時は驚きました。
全く想定外だったんです。
子午線上の星の位置と名を覚えて行く。
これこそが物部氏の伝統的な伝授法です。
すごいですね。
子供に8年間毎晩教えるというのも合理的です。
そして、この伝授は大覚少年で終わりを告げました。
この本は高松宮宣仁殿下の五十余年に及ぶドイツ語訳古事記刊行の大事業の中のささやかな一環として世に出る運びとなりましたことは誠に感慨無量の一言に尽きるところであります。
この本は日本人への最後の贈り物です。
どうぞ再版されて皆様の手元に届きますように。
因みに今夜、2012年8月12日の夜8時。福岡はこんな星空です。

天の川が正面に流れています。
これに星座を重ねてみましょう。

福岡の夜空は明るくなり過ぎていますが
子午線の右に赤いアンタレスぐらいは見えるかなあ。
みなさんの所はこれと比較してどの位置に見えますか?
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今年の夏は、貴ブログにより古代史に関する様々な新しい知見を啓(ヒラ)かせていただき,感謝です。
中でも大変有意義であったのは,(1)古代の星に関する信仰の実態(真相)と(2)暦の問題でした。
それらは農業等人々の生業(ナリワイ)に関係する事柄ですから,医薬同様本来国家が大きく関わるものだったのです。
その暦に関する事柄が,近年まで綿々と太宰府近郷の遠祖が社家であった家系に代々受け継がれていたというのは,まさに奇蹟としか言いようがありません。

勿論,各神社の伝承またあなた様の見解を鵜呑みには出来ません。それは,有史以来の国家体制の変化により,体制に都合のいい祭祀管理が徹底して行われたと思われるからです。
(1)697年8月の大和日本国の併合による九州倭国の滅亡。
(2)江戸幕府による宗教統制の実態は不明ですが,明治政府の神仏分離令による廃仏毀釈。それに至る幕末の“淫祠”祭祀論争。
(3)第二次大戦後のGHQによる宗教統制。

結果,伝承が荒唐無稽なおとぎ話のようなものになってしまっているのです。
その事は,それぞれの神社が体制の中で生き残るためには仕方のない事だったのかもしれません。
その一方で,北部九州における神功皇后伝説は,変に生々しいのです。その意味する所については,軽々に結論は出せません。
しかし,『記紀』にこうあるから,それを素直に信じるというのは,あまりにもおめでた過ぎます。

もう入手し,一読なさいましたでしょうか。【日本王権史の枠組み】の間違いが訂されたという事は,研究の土台となる“物差し”が改められたという事なのです。
もはやこれまでの物差しは通用しません。

正直なところ,私は一読しただけでは理解出来ませんでした。
しかし,あらためて読み直した時,その意味する事のあまりの内容に,大変な衝撃を受けました。
あなた様が,どのようにお読みになられたのか,是非ともお伺いしたいものです。
私の記紀や神社伝承に対するスタンスをお話しておきましょう。
私は、まず心をまっさらにしてその伝承を理解しようと努めています。
知識がないので、理解に努めているだけです。
記紀もまだ一部しか読んでいないので、何が書いてあるが学んでいる最中です。
うのみにしているという御批判は当たっていません。
うのみにする前のレベルなのです。
もちろん、健全な批判心を持っていますので、全容が分かれば自分なりの見解が出来るでしょう。
これは単なる公開日記です。
私の成長の記録なので、未熟なものです。
直観やシンクロニシティに導かれて目の前の物を理解しようとしている個人の日記なのです。
御紹介の本はまだ御縁が出来ていないようです。
多分、私の知識ではまだ理解出来ない世界なのでしょう。

“鵜呑み”以前との事。なるほど,そうかもしれませんね。
そのような事を,ご自分で自覚なさっていらっしゃるという意味では,確かに生長日記。
後で,どのような形にまとまるか楽しみです。
しかし,あなたの場合,実際に現地に足を運んでいらっしゃるという点が強みであり,その体験は大変貴重です。
それぞれの神社に於ける疑問や,それに伴なう伝承の“ホコロビ”といったものを大切になさってください。

それまでは,神仏混淆で神社にも僧侶や神職が入り乱れています。
それぞれの神社によって事情は異なるのでしょうが,トップが僧侶というのが普通であったような節があります。
したがって,維新前の神社界における神道についての理解は,維新後とは異なるやに思われるのです。

現在の私たちは,維新後の神仏分離した形,つまり神社内から極めて仏教色を排除した形を見ており,
それらを通して,以前もそうだったと思いがちですが,そういった在り方は,言わば“幻想”のように思われます。

それらは神仏習合時代の名残だったのです。
しかしながら,境内に仏教関係の施設を見ない現在にあっては,なかなか当時の状況を想像するのは,難しいものがあります。

684年7月西北に彗星
684年11月戊辰に七星東北に流れる。
684年11月庚午に日没時東方に星隕雨の如し。
742年陸奥黒川郡で赤雪降る2寸積る。
742年京中往々に飯が降る。
764年9月星落ちる。
764年12月大隅信禰村の海に砂石降り3つの島となる、80余人亡くなる
771年11月西南に星隕、その音雷の如し。
772年6月京師隕石、大きさ柚子の如し数日で止まる。
772年12月彗星
地震や噴火もたくさん
中には、飯までも。
魚が降ってきた話が名島にもあるので、まだまだいろんなものが降ってくるんでしょうね。
ところで、これは何に書かれていた記録ですか?
よろしかったら教えてください。
