2012年 08月 20日
三階松紋・九州王朝の紋なら倭国の紋になるが
三階松紋
九州王朝の紋なら倭国の紋になるが
「三階松」は九州王朝の紋だと奈東さんから聞きました。
それ以来、気をつけて見るようになったのですが、今の所4社ほど出会いました。
そこで、今回は「三階松紋の神社」のリンク集です。
九州王朝と言うのは、『旧唐書』から「倭国」の事だと分かったので、
「三階松紋」が「九州王朝の紋」だとすると「倭国の紋」となります。
4社だけでも、その分布は広いぞ。
次の二つは「倭国」と「日本国」の併存にびっくりした記事です。
百済の前方後円墳(5)
中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…
まずは『旧唐書』倭国伝を読んでみよう
http://lunabura.exblog.jp/18002412/
百済の前方後円墳(6)
『旧唐書』日本伝
日本国の成り立ちと不思議な白亀年号
http://lunabura.exblog.jp/18039316/
それでは神社へまいりましょう。
宮地嶽神社の三階松
(奥の院の宮地嶽古墳に三階松の紋が。)
宮地嶽神社(5)福岡県福津市宮地嶽神社内 奥の宮不動神社(1)
地下の正倉院と呼ばれる巨大古墳
金メッキの頭椎の太刀は3m-どうやって持つのよ?
http://lunabura.exblog.jp/14559788/
その古墳の大きさは日本で第2位。出土した金銅製の頭椎の太刀は3m以上。
それらの副葬品が何故か古墳の外から出土したという謎があったのですが、
古墳か開口してから、修験者によって、丁寧に外に出されたのが分かりました。
出土が伏せられたのは治安維持法などの抵触を恐れての事だったようです。
宮地嶽古墳
副葬品が外にあったのは何故?出土状況が明らかに
http://lunabura.exblog.jp/16668863/
古墳の羨道を照らす提灯は三階松紋。
被葬者については神社側は磐井の君の一族として祭祀しています。
(通説の宗像徳善ではない。)
これと同じ構造で小規模な手光波切不動古墳が近くにあり、
最近金銅製馬具が出土したので発掘調査中です。
古墳内は祠があったので、やはり副葬品を横にどけていた可能性もあります。
昔はこの手光波切不動古墳を先に参拝してから
宮地嶽不動古墳に参拝するのが順だったという光さんの証言があります。
発掘前に撮った写真を次に載せています。
手光波切不動古墳 てびか・なみきり・ふどう福岡県福津市手光
ここからも金銅製の馬具が出土した
http://lunabura.exblog.jp/17700982/
この二つの古墳は地元の竹内家が祀り続けたそうです。
この近辺の丘陵地帯は古墳の大密集地帯で、蛇行鉄器が出土しています。
謎の蛇行鉄器
高句麗―伽耶―倭をつなぐもの
http://lunabura.exblog.jp/15011135/
高良下宮社の三階松
(拝殿を見上げると三階松が)
高良下宮社(1)久留米市御井町 ここも御祭神に異伝あり
http://lunabura.exblog.jp/16198176/
高良下宮社(2)暗号に満ちた社殿 崩落し始めた屋根を守ってください
http://lunabura.exblog.jp/16206942/
祭神が変化していますが、竹内宿禰の名前もあります。
壱岐神社の三階松
竹内宿禰の身代りになって亡くなった壱岐真根子を祀る神社です。
生(いき)の松原の中にあります。
壱岐神社 福岡市西区下山門1―9-3 壱岐真根子を祀る宮
九州王朝の三階松があった
http://lunabura.exblog.jp/17484337/
松崎天満稲荷神社の三階松
小郡市飛鳥(ひちょう)の近くの宮です。
三階松と梅です。
梅は菅原道真の関係でしょうか。
まだブログでは記事にしていません。とんでもないものがあります。
もう一度取材に行ってきます。いずれじっくりと。
こうやって並べてみると、竹内宿禰の名前が3社に出て来ますね。
想定外だった。
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今日のブログに載せました。
見事な石祠があんな山の中に…。
人家がないんですよね。
三階松の宮地嶽神社(福津市)の方を調べて磐井関連の証拠が出て来ました。
磐井は風土記にあるように、豊の国に逃げたようです。
そうすると、このルートを通っての敗走になります。
何だか、すごい発見ではないですか?
このルートは八女から、広川あるいは上陽経由で浮羽、朝倉へ抜ける最短ルート。しかも山の中。
なるほど・・・
古墳の地図くらいに参考程度にしか載っていない神社にこのような可能性があるとは・・・
今度は、八女方面も調べたら面白そうですね。
いつか歩いてみます・・・
山の中、古墳が近くにあったということは、古墳時代に集落があったということですよね。
消えてしまった村里。
なんとも、面白そうです。
ちなみに、コメントをご覧の方で、三階松の石祠を見たい方、
筑後国造さんのブログはサイドバー「山歩き古墳巡り」
http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-600.html
に載っています。
宮地嶽神社の提灯は「丸に右三階松」。
筑後国造さんの上記HPを拝見すると、宮地嶽神社の
石に刻まれた紋はなんだかまっすぐ上重ねのような、、。
ネットで検索してみると三階松はオリオンを表して、従って
海人系の家紋を表し、東から昇る時が「右三階松」で
西に沈む時が「左三階松」ではないかと記す方もいました。
うちの家紋が「丸に左三階松」だったのでこんな意味が、、
とちょっと吃驚しています。ま、うちの家紋はいつから
始まったのか当てにはなりませんが、辿っていくと
いろいろおもしろいですね。
三階松の名称は、なるほど、二段目の位置で決まるんですね。
オリオンはまっすぐ昇り、最後は平行に近い形で沈むので、左三階松のイメージとはつながらないのですが、
緯度が違うところでは、そう見える場所があるのかも知れませんね。
よく分からないです。
メールの方、またあとで連絡します。
片隅に写っていたり、ボケていたりでしたので、今度撮り直しに行こうと思います。
その他の気になる神社とともに、いつか紹介したいと思います。
ボケていても大丈夫ですよ!!
内倉氏のお話し、すごい情報でしたね。
内家がその近くにあるのなら、三階松があってもおかしくないことになりそうですね。
話を聞きながら、あの本を思い出していました。
また教えてください。
参加出来ませんでしたが、ご苦労様でした!
今、毎週土曜日の早朝にやっている神社番組で北野天満宮がメインでした。
何かこれでもかって位三階松紋があったんですが丸に囲まれては無かったんですよね。
上が右にずれてます。
王朝と関係あるのか無いのか判りませんが面白かったので(>_<)
土曜日の朝の5時からやってますよ(//∇//)
最初の方では宗像大社や伊勢神宮とかやられてました!
筑後国造さんからお写真観られていたんですね♪
北野天満宮の三階松紋は梅紋が霞むくらいで驚きました。何処だったか、梅紋を真ん中に両端にズラーっと三階松紋が並んでいる映像は圧巻でしたが丸のある無しで意味が変わるのかな~っと考えてしまいました。
utubeなどに出たら教えてくださいませ^^
久しぶりにこの頁を覗くと、なんと北野天満宮に三階松紋ですか!
私は学生の時に天満宮の近くの北野白梅町に下宿しておりましたが当時は全く気がつきませんでした。
のらさんの番組ですが多分これですね。
http://www.bs-j.co.jp/graceofjapan/12.html
ここの上の写真下の3つ目と4つ目の●をクリックすると、
ちょうちんに「左三階松紋」が見えますね!
youtubeには残念ながらこの回のものは見つかりませんでしたが
他の神社版がいくつかあったので載せておきますね。
https://www.youtube.com/channel/UC3bLOkkU0B8h-vh3EMnD0NQ
楽しく拝見させて頂きました。うちの家紋も、右三階松です。時折、ルーツを調べてますが、うちに残る系図等から、土佐諸家系図や土佐国諸氏系図に行き着き、武内宿禰、清和源氏竹中氏、藤原氏等の末裔である記述を発見しました。一番古い御先祖が、1600年代の丹後国住人、後の代で、土佐 長宗我部家に仕え、その頃、夜須大宮八幡宮に御先祖を祭り、現在も、武内宿禰をお祭りするすぐ下に、御先祖が祭られております。
紀氏の香椎宮社家から始まる武内姓もある様で、我が家も北九州にルーツがあるのかな?と思ったりしております。
そうなんですね。三階松、うちも遡れば、九州に行き着くのかな?と感じてますが、各地を転々と流れて来てる為、丹後から以前は自力で調べるのが難しくなってきております。
うちに残る系図も、幕末に作られた、天正の頃の方から始まるものなので・・・
九州で三階松紋を用いる、武内姓の方ご存知でしょうか?
ちなみに、鹿児島の弥五郎ドンもまた武内宿禰だそうですよ。