2012年 08月 28日
審神者神社(1)中臣烏賊津使主を祀る宮
審神者神社(1)
さにわ
福岡県粕屋郡久山町
中臣烏賊津使主を祀る宮
あれ?夢だった?
審神者神社の映像が突然浮かびました。
ネットで探索したはずはないので、夢で見た映像だったのだろうか?
それは石の祠でした。「審神者神社」とくっきりと書かれています。
夢で見たとすると、これまでの経験上、現実とは微妙に違っています。
これは「行け」と言うサインだ。
という事で、グーグルで場所を確認して、出かけました。

上山田公民館の裏側に廻り込むと細い参道の奥に在りました。
ここはかつて久山町主催のウォーキングで訪れた神社でした。
清らかな水が流れているのが印象深かった事を思い出しました。
今日も音を立てて豊かにきらきらと流れています。

数坪の杜ですが、ここだけ木々がよく茂っています。
これで審神者神社のほぼ全体です。

正面です。

杜の中に入るとすぐに神殿です。
「審神者神社」と書いてあります。石祠ではありません。
しかし、あとで久山町誌を見ると、社殿は石祠と書いてありました。
木の扉の奥にあるのかも知れませんね。
御祭神は中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)です。
このブログでも何度か出て来たのですが、覚えていますか?
説明板があったので、書き写します。
審神者(さにわ)神社
『日本書紀』の神功(じんぐう)皇后紀には「皇后の祈願に際して中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)を喚(め)して審神者とす」とあります。
審神者とは神の神託を受けて、その意を伝える人のことです。中臣烏賊津使主をお祀(まつ)りしているため審神者神社の名がついています。おやしろさまともよばれています。
この神社は、慶長3年(1589)まで六所に社殿のあった六所大明神と向かいあっていました。両者の間に建物を建てることが禁じられていたと伝えられ、その言い伝えは現在も守られています。
中臣烏賊津使主(いかつおみ)。懐かしいですね。
彼の名前は仲哀天皇の崩御後に登場し始めます。
日本書紀を読んでみましょう。
仲哀9年春2月5日に、天皇は急に具合が悪くなり、翌日に崩御しました。おん年52歳でした。神の言葉を信じなかったために早く崩御したのでした。
(ある本には、天皇はみずから熊襲を攻撃して、敵の矢に当たって、亡くなったともいう。)
皇后と大臣の武内宿禰は天皇の崩御を隠して、天下に知らせませんでした。
皇后は大臣の武内宿禰と中臣の烏賊津の連(むらじ)、大三輪の大友主の君、物部のイクヒの連、大伴の武以(たけもつ)の連を召して、
「今、天下はまだ天皇の崩御を知らない。もし人民が知ったら、気を抜くのではないか。」
と言って、すぐに四人の大夫(たいふ)に命じて百寮を統率して、宮中を守らせました。
そして、ひそかに天皇の遺体を船に収めて、武内宿禰に海路を穴門まで送らせました。こうして、豊浦宮でモガリをしました。秘密にするために、火を灯しませんでした。これをホナシアガリと言います。
22日に大臣の武内宿禰は穴門から戻って来て、皇后に報告しました。この年は新羅の役のために天皇の葬儀は出来ませんでした。
天皇崩御後、中臣烏賊津使主は側近の会議のメンバーに入っています。
場所は福岡市の香椎宮です。現在地からは山を越えた所にあります。
戦意喪失を恐れた皇后たちは天皇の崩御を隠す事にしました。
そして、亡骸を下関市の忌宮神社の近くに仮埋葬します。
忌宮神社に行って見ると、その場所も残っていました。
(ただし、仲哀天皇の殯斂地(ひんれんち)は数カ所伝わっています。)
竹内宿禰が戻って来ると、天皇に祟った神を明らかにする事にしました。
仲哀天皇の生存中は天皇自身が琴を弾いて、神功皇后が神懸かりをして、
懸かった神がどんな神なのかを竹内宿禰が審神者していました。
しかし、琴を弾く天皇が崩御したので、その役目は竹内宿禰が代わり、
竹内宿禰の審神者役は中臣烏賊津使主がする事になりました。
烏賊津使主が審神者をする場面が日本書紀に書いてあるので、読みましょう。
仲哀9年、春2月に、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で崩御された時、皇后は、天皇が神託に従わなかったために早く崩御された事に心を痛めて、考えました。祟っている神を明らかにして、神の勧める財宝の国を求めようと。
そこで群臣や百寮たちに命じて、国中の罪を払い清め、過ちを改めて、さらに斎宮を小山田の邑に作らせました。
3月の1日に皇后は吉日を選んで、斎宮に入って自ら神主となりました。その時には武内宿禰に命じて御琴を弾かせました。中臣の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)を召して審神者(さにわ)としました。
そしてお供えの織り物をたくさん、御琴の頭と尾のところに供えて尋ねて言いました。
「先の日に天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。願わくは、その御名を教えて下さい。」と。
七日七夜経って、ようやくお答えになりました。
神風の伊勢の国の度逢県(わたらいのあがた)の五十鈴の宮にまします神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかき・いつのみたま・あまさかる・むかつひめのみこと)。」と。
烏賊津の使主がまた尋ねました。
「この神以外に他の神はいらっしゃいますか。」
お答えがありました。
「旗のように靡くススキの穂が出るように出た吾は、尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神である。」と。
「他におられますか。」
「天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神(あめにことしろ・そらにことしろ・たまくしいりびこ・いつのことしろのかみ)有り。」
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
そこで、審神者が言うには、
「今答えずに、また後に出て来られることが有りますでしょうか。」
すると答えがあった。
「日向国の橘の小門の水底にいて、海草のように若やかに出てくる神、名は表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神がおる。」と。
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
ついに他に神がいるとも言いませんでした。その時に神の言葉を得て、教えの通りにお祭りをしました。
それから後、皇后は吉備の臣の祖・鴨別(かものわけ)を遣わして、熊襲の国を攻撃させました。それほど経たない内に、熊襲はおのずから降服しました。
神功皇后の口を借りて神々が次々に名乗りを挙げます。
それを明らかにしたのが烏賊津使主です。
彼の名は福岡市の三苫の綿津見神社にも出て来ます。
昔、香椎宮の神幸のあった所である。神功皇后のご西征の時に神が助けたのを奉賛する風習が残ったのである。
中臣の鳥賊津臣命(いかつおみ)が西征に供奉して龍船が対馬府中を離れると、風雨がひどく風波が強くなった。その時に、鳥賊津臣命は海神に誓い、苫を三枚とって海底に沈めたところ、その霊験のおかげで風波が穏やかになった。
のちにその苫が流れついたところに社を建てた。これが三苫綿津見神社である。
(『ふる里のむかし』和白郷土史研究会)
この三枚の苫(ワラの敷物)にはそれぞれお供え物が載せられて、
祈願をしたのち、苫に包んで海に捧げたものが、福岡市の東区の海に流れ着いた事から三苫(みとま)という地名が生まれたという話です。
烏賊津使主が皇后の側近として祭祀を司ったようすがよく分かります。
(つづく)
仲哀天皇殯斂地 ちゅうあいてんのう・ひんれんち
山口県下関市長府侍町 隠した場所は太陽観測点だった?
http://lunabura.exblog.jp/16981055/
香椎宮(Ⅲ)天皇の崩御をどうやって隠す?
http://lunabura.exblog.jp/13196975/
綿津見神社(1)わたつみじんじゃ 福岡市東区三苫(みとま)
嵐を鎮めた海神たちを祀る宮
http://lunabura.exblog.jp/i89
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『竈門山旧記』(元は宝満宮伝記とか)に「宝満宮と申す事、宝は珎財の至極なるが故に玉といふ字作ると也。満は鹽(しお)の起こり来て至極なるを満と云ふべし。然るに依という字を満の字に書き改め宝満の二字を玉依の二字と一和通用すべきか」とあります。
意味は判然としませんが宝満=玉依という論で、宝満宮=玉依姫の墓所という伝承を裏付けるものでは。
ただ、玉依姫に擬される初代高良玉垂命は369年に博多湾岸から筑後に遷宮したとされますから、墓所でなく遷宮前の宮処だった可能性もありますね。
筥崎宮も志賀海神社も近いですし、山ほめ祭りの主役「わが君」は彼女だったのでは。
『竈門山旧記』。面白いものがあったのですね。
おっしゃる通り、「宝満宮=玉依姫の墓所」という伝承が当時流布していたというのが想像できる説明のようですね。
玉依姫については、まだ志免町の宝満宮の話しか取材していないのですが、まだ他にも宝満宮があるので、そこも訪ねてから考えてみようかと思っているところです。
ブログに書いたでしょうか、那国王が高良山に逃げ込んだという話を光さんから聞いた事があります。
それが愛読者さんの言われる369年に符合する可能性があるかもしれませんね。
私は高木の神が追い出された話と結びつけましたが。
当時、私にもっと知識があったら突っ込んで聞けたのにと残念です。
きれいな参道、鳥居、玉垣が奉納されているんですね。
きっとバス通りが整備されたから、
わかりやすく、参拝しやすいようになったのかもしれませんね。
昔は個人宅の敷地を横切って祠に行き、祭祀をしたものです。
こちらのテンプレート?写真?ちょっと前から変わりました?
スマフォからお邪魔させてもらう機会が多くなったんですが、美しい海に審神者神社の文字色の色が相まって癒されます(^^)
小さいながらも晴れわたった空、光る木々の葉、一つ一つが癒しだなぁと感じる神社ですね。
藤原鎌足(中臣鎌足)のご先祖様かと思うと感慨もひとしおです。
審神者神社で祭祀をされたのですね。
そんな方に訪問いただいて光栄です。
数年前に参拝した時からすでにこのように綺麗になっていました。
これが祭祀の原型に近いと思うと感慨もひとしおです。
境内と六所宮の間には倉庫が建っていますが、
参道がきれいに整備されています。
案内板もあるので、分かりやすくなっていると思います。
ここの祭事で何か特徴があるようでしたら、また教えてください (^-^)
確かに狭いのですが、自然の力がみなぎっている境内でした。
烏賊津使主の伝承を読むと、祭祀ってこんなんだったんだと
具体的に分かって興味深いですね。
彼が神功皇后の側近なら、そのまま後継者が中臣鎌足につながるのは間違いないですよね。
歴史が少し身近になりました。
ところで、スマホ、友人のでは写真が見えませんでした。それはドコモです。
スマホによって見えたり見えなかったりするんでしょうか。
「海」のテンプレートがあったので、速攻で変えました。(*^_^*)
癒しになったのなら嬉しいです。
写真が見えない機種を買ったら不幸ですね (・.・;)









