2012年 08月 29日
審神者神社(2)磐境神籬の跡だろうか
審神者神社(2)
さにわ
磐境神籬の跡だろうか

仲哀天皇の死を知る少数の側近の一人だった中臣烏賊津使主の
審神者のようすや祭祀の具体的な話を書紀や神社伝承で前回確認しましたが、
彼が久山町にどうして祀られているのかというと、
すぐ近くに斎宮(いつきのみや)があるからです。
旧糟屋郡には二つの斎宮がありますが、
小山田の斎宮(古賀市)で、天皇に死をもたらした神々の神託を受け、
この山田の斎宮(久山町)でその神々を祭祀したのだろうと私は結論付けています。
この久山町は香椎宮からは山を越えた所にあります。
ここに行くには川を遡るか、山を登っていくしか道がありません。
海に面した香椎宮と比較すると外敵に対して安全な場所です。
斎宮を中心として強固な守りをした事が黒男神社などに伝わっています。
新羅や熊襲、羽白熊鷲、夏羽の残党から守るのにふさわしい地形を選んで
皇宮の機能を移し、斎宮、聖母屋敷と呼ばれるようになったのではないかと考えています。
そしてここで盛大な払いと勝利祈願の祭祀が行われたとも。
この審神者神社はその斎宮から南西わずか200mの所にあります。
ですから烏賊津使主(いかつおみ)の祭祀場跡ではないかと考えました。
烏賊津使主が祀ったのはあの祟った神々のはず。
神殿の左の地面を見ると石積がありました。


祠の周囲、後ろ半分、3~4メートル四方に見られます。
この石のサイズを見て、北九州市の一の宮神社の磐境神籬を思い出しました。
それは神武天皇の祭祀あとの神籬で、丸と四角で出来ていました。
仲哀天皇と神功皇后もその神籬(ひもろぎ)を訪れています。
もしかしたら烏賊津使主もそれに倣って、同じような磐境を作ったのではないか。
ふとそんな想像もしたのですが、
いや、地元に石を積んで祈る風習でもあったのではないかと思い直したりもしました。
あるいは宇美八幡宮のように、安産を祈って石を奉納したのか。
大正時代までは勝負の神として子供たちがリレーの必勝を祈願したという事なので、
安産の祈願ではないようです。

小さな境内ですが、植物相が大変豊かで、木漏れ日が神秘的です。

これは審神者神社の前の景色ですが、この田んぼは神田だと地元の方に教えて貰いました。
今話題にしている斎宮(いつきのみや)は伊勢の外宮と呼ばれています。
ですから豊受大神が祀られています。この神田はその神のためのものでしょうか。
ちなみに内宮は伊野天照皇大神宮です。

稲の花が咲いていました。9月の初めには収穫されて祭典があるそうです。

神田の右横に斎宮の御旅所がありました。
この神田には六所神社があったのですが、今は斎宮の方に合祀されています。
それについて案内版があるので書き写します。
六所宮跡(ろくしょぐうあと)久山町誌によると、「祭神は
六所宮は慶長年間(16世紀末)までこの地に鎮座し、立派な社殿があったと伝えられています。
「筑前国続風土記拾遺」によると祭神は「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冊尊(おざなみのみこと)・速玉男命(はやたまお)・豊受大神(とようけ)・瓊瓊杵尊(ににぎ)・カグツチ命。
現在、六所宮は六所大明神として斎宮の境内に祀られています。
斎宮に移された理由としては、天正年間に兵火に焼かれたからだとも、川のそばに立地し、洪水の心配があったからだともいわれています。六所宮が移された後のこの地は神田とされ、今でも六所(ろくしゅう)という地名が残っています。
江戸時代、黒田家は天照皇太神宮(伊野皇大神宮)を内宮と呼び、豊受大神を祀った六所宮を外宮として尊びました。
六代藩主・黒田継高(つぐたか)の時には、田虫除(たのむしよけ)として糟屋郡に一本だけ下賜(かし)された伊勢御田扇(いせおたおうぎ)が納められ、今も斎宮に大切に保管されています。
熊野三所大神(イザナギ・イザナミ・スサノオ)・
伊勢外宮皇大神(豊受大神)
愛宕二座大権現(彦火出見尊・火緒神)
を祀る壮大な社殿で、天正14年、薩摩兵の兵火にかかって焼失」とあります。
祭神が微妙に変化しているようですが、
ここで気になるのは六所宮と審神者神社は向かい合っていて、
この間に建物を造ることが禁じられたという事です。
二社の間は100mほど。
審神者神社に祭祀者の烏賊津使主が祀られているなら、
六所宮の方にはその対象の神々が祀られているのではないかと期待したのですが
違っていました。
斎宮~審神者神社は当時から場所が変わっていないという点でも貴重な史跡で
古代の祭祀や皇宮の様子がもっと具体的に再現できる可能性があるなと思いました。
さて、烏賊津使主の姓は「中臣」です。
中臣氏は那珂郡にいて、北の星を観測していたと真鍋家では伝えています。
那珂の臣。ナカの臣。
烏賊津使主は那珂川町の出身なのでしょうか。
那珂川町の裂田溝の工事などを竹内宿禰に依頼したのはこの烏賊津使主だったのか。
そうすると、現人神社の住吉族とはどう関わるのだろう。
烏賊津使主は仲介者なのだろうか。
一つ知るたびに一つ謎が生まれます。
神功皇后は無事出産した後、短い期間、この斎宮に滞在します。
年が明けた2月に皇后の一行は百官百寮と共にショウケ越えをして
大分(だいぶ)宮(飯塚市)へ大移動します。
積雪の厳しい時の山越えです。
私は最初、ここで皇子が歩ける一歳になるまで滞在したのではないかと考えたのですが、
初めて立ったのは生立神社(おいたつ・みやこ郡)だと分かったので、
その考えを訂正しました。
さて、このブログもショウケ越えをして飯塚市へ移動したいのですが、
どうしても行ってみたい神社があります。
荒船神社です。次回はそちらへ。
地図 審神者神社 六所宮跡 斎宮 黒男神社
黒男神社(1)くろどんじんじゃ福岡県粕屋郡久山町
武渟川別命の子孫・阿部氏が武内宿禰を祀る宮 ここは古代の陣営あと
黒男神社(2)武内宿禰がすべてをかけて守ったもの
http://lunabura.exblog.jp/i69/
一宮神社 北九州市八幡西区山寺町
神武天皇の磐境神籬が現存していた ここは岡田の宮あと
http://lunabura.exblog.jp/17333319/
生立八幡神社 おいたつ・はちまんじんじゃ
福岡県京都郡みやこ町犀川生立7
皇子が皇后の膝に手をかけて立ち上がった
http://lunabura.exblog.jp/16756865/
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早速貴ブログにお邪魔しました。
写真が綺麗ですね!!!
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六所(ろくしゅう)、小字として残っていた地名ですね。
六所は現在では使われていませんが、
齋宮は住所表記として「聖母屋敷(しょうもやしき)」という小字が残っていますよ。
そのほかにもこの近辺には「外園(ほかぞの)」「尾園【御園】(おぞの)」
「古門(ふるかど)」「掘之内(ほりのうち)」「地下並(じげなみ)」
等等、齋宮などに縁のある小字がありました。
「鳥居ヶ淵(とりいがふち)」という小字は
六所大明神の大鳥居があった名残の小字のようです。
斎宮の規模が再現できるのではないでしょうか。
是非とも郷土の有志で再現地図を作っていただきたいものです。
まだまだ地形も残っているので、観光課などに気づいてもらいたいですね。
どうぞ、少しずつでも、思い出されたらまたコメントください。 ^^
この山田地域の字名の地図、ありますよ。
私の手元にある資料は、
山田っ子の社会学習「地域の人に学ぼう」
山田の字名と地名のいわれ
と言う一覧表と、
山田の小字名が記されて地図があります。
私の父が持っていたものですが、
どこで入手したものかは不明なんですよね。
機会があれば地元の方と山田の字を確認しながら逍遥したいものです。









