2012年 09月 05日
荒船神社(3)蘆木氏は太宰府に直属していた
荒船神社(3)
蘆木氏は太宰府に直属していた

ほんの少し石段を上っただけなのに、境内からの眺望は抜群です。
右側から宝満山の山裾が流れて、その先に丘陵地帯があります。

太宰府はこの丘陵にあります。

境内の正面鳥居からの眺め。背振山が見えています。
この境内から一望できる平地は川から湖沼へと変化して
一面の葦原となったのでしょう。
それが今は豊かな田園になっています。
通る船ははるか遠くでも掌握できる場所に神社はありました。
その古代の風景を眞鍋氏が伝えています。
アシキ
『儺の国の星・拾遺』p201アシカビ星
昔は舟人を「あきしき」或いは「あかし」といった。蘆木(あしき)はまさに太宰府に直属して千歳川の水行を司った氏族の名であった。
やがて「あしかひ」の名が現れた。葦の葉陰に船の帆影が遠く眺められる風景であるが、川水だけが岸の左右に高く茂った葦の茎の間にはるかに開けている光景が峡(かひ)であり、又往来の頻(しきり)なる風景が交(かひ)であったことになる。
祖先は暇(いとま)あり、憩(いこひ)あり、もって荘重にしてかつ優美な言葉で身の廻りのあれこれを自由自在に表現するだけの綽綽(しゃくしゃく)たる余裕があったものとみえる。
「あきしき」「あかし」「あしき」は舟人を指していました。
その中で蘆木(あしき)は氏族の名となり、
太宰府に直属して水行を司ったと伝えています。
千歳川とは筑後川の事です。
この蘆木川(あらふね川・宝満川)は筑後川に注ぎます。
葦の繁茂力は大変強く、小さな川では現代でもこの通りです。

(山口八幡神社へ向かう橋の上から。宮若市)
完全に川を埋め尽くしています。

これは生立八幡神社へ向かう途中の川。
水量が多いと、中央にはさすがに葦は生えず、船が運行できます。
「峡」(かひ)とは海峡のように、細長い状態を指していて、
葦と葦の間の細い視覚から船が見えるのを「あしかひ」と言い、
川で、葦の生えていない中央の流れを「かひ」と呼んで海峡のように見立てました。
これは船の上から見ないと生まれない言葉ですね。
そこを行き交う船の「交ひ・かひ」とも重ね合わせました。
宝満川~筑後川ならではの光景だったのでしょう。
舟人は川を遡る時は、必ず海の上げ潮に乗せる。これを昔は「あじろき」といった。海の魚も川の魚もこの時刻に水の垂みに集まるから、ここに杭を打ち並べて網を張り掬(すく)い捕る。これを平安時代には網代木(あじろぎ)といった。
この潮ざかいは舟人の待つ泊り場であった。松峡(まつかひ)の名はすでに仲哀帝9(200)年にみえる。太宰府のありし古邑の地であった。
「かひ」の字は松峡(まつかひ・まつお)にも付いています。
この名が仲哀帝9年に見えるとしたら、神功皇后伝承のある松峡神社の事ですね。
夜須であり、層増岐野だった所です。(サイドバー⇒松峡神社)
何々?そこが「太宰府のありし古邑の地」だったって?
これはまた新たなテーマが (・.・;)。でも今日はパス。
阿志岐を発って筑後川を下り、赤司(アカジ)八幡宮を通って更に下ると
高良大社の麓に辿り着きます。
そこにもアシキという地名があったそうです。
(おぼろげなので、くじらさん、愛読者さん、教えてください!下の地図付近でOKですか?)
蘆木氏が掌握する湊々に「アシキ・アカシ」の名が付いているようです。
昔、千歳川と蘆木川は今の三井郡に巨大な沼を形成していた。
太宰府の大子(たいち)、即ち天官暦官は南の巨勢、北の葛城そして西の平群の山を
「月、或いは星の地、或いは日を巡るに似たり」と語っていたときく。
太宰府には大子という官職があり、
天体観測をして暦を作る最高官吏で、天子に直接面会が出来ました。
南の巨勢、北の葛城そして西の平群の山を
「月、或いは星の地、或いは日を巡るに似たり」と語っていた
というのは難解な言葉ですが、
これは大子が川を行き交う船を見て、空の星や月の運行に重ねたようです。
まずは巨勢・葛城・平群について。
福岡にはかつて葛城氏や平群氏がいたと伝えています。
場所がかなり分かって来ました。

これは近畿に移動する前の勢力図という事になります。
この三つの勢力地を連絡する船があったのでしょう。
それを太宰府が掌握していました。
川を遡るのには上げ潮を利用するという事は、一日に二回、遡る事が出来るのですが、
月の満ち欠けに連動しているので、朝だったり、昼だったり、変化する訳です。
ですから遡る船の時間を見れば逆に月の満ち欠けが分かる事になります。
その運航時間は月や星を見て決めるのでしょうが、
逆に言えば船の運航を見れば暦が分かるという訳です。
大子は夜には星を見て、昼には船が遡る様子を観察して、暦を確認したのでしょう。
「月、或いは星の地、或いは日を巡るに似たり」は
「月或いは星の、地或いは日を巡るに似たり」と句読点を打つと理解しやすいでしょう。
本当に美しい文言です。
この荒船神社の境内からも、それは良く見えたことでしょう。
川の舟人の暮らしは月の満ち欠けに直接関係していたのですね。
さて、ここまで調べると、御褒美がありました。
もう一人、尋ねていた人からの電話でした。
「荒船神社の祭神が分かったよ。無格社で、海神三神と書いてある。
隣の神社は老宮神社で字は七刀。祭神は菅原神。」
海神三神といえば志賀の綿津見三神でしょうか。

どおりで。
これは境内にあった船石。お汐井の砂が載せてありました。
そして。
何々?老宮神社の地名が「七刀」だって?菅原神なら熔鉄の神じゃん。
(つづく)
ときどき、ポチっと応援してくださいね。

にほんブログ村


確か、久留米市山川町周辺(旧王子宮・現坂本神社辺り)は昔、三井郡阿志岐村と呼ばれていたと郷土史で読んだことがあります。調べてみると失われた地名が結構あるものですね。
そうですか。
曖昧だったので、こうして教えて下さるとありがたいです。
地図を見ましたが、私のイラストは大体OKですね。
阿志岐の字も同じとは。
これで同じ地名が各地にある理由も合点。
どうもありがとうございました。 (^-^)
これからもよろしくお願いします。
高良山の方にも阿志岐山城跡があるのですか!
今も史跡として見る事が出来るのでしょうか。
筑紫野市の阿志岐山城と比較してみたいものですね。
葛城襲津彦の屋敷というのは近畿の方に出土していて、
真鍋氏は「筑紫と近畿を往復していた」と言っているので、
この辺りの事情が、より具体的に描けそうですね。
ありがとうございます。 (^-^)

「王子宮〈高良御子神社〉由来」によれば「(玉垂命の)九躰ノ王子ハ高良ニ住ミ厭キテ阿志岐・古宝殿城ニ下リ給フ」とあります。付近には王子池もあって、8番目の王子「安子奇命」との深い関係が推測されます。
王子宮関係者の古老の話では、かつて阿志岐村は浮羽から八女近くまで広がっていたとのことです(確認はできていませんが・・)。
「葛城」の「葛」は「かつ」とも「ふじ」とも読め、神功皇后のアシストをした「藤大臣」の「藤」とか「勝村・勝頼」の「勝」と共通しています。
「宝満の神は玉依姫」とも伝えられ、高良玉垂命=玉依姫=神功皇后のモデルとすれば、阿志岐地名が宝満山から高良山まで広がることや、葛城氏の出自、「藤大臣、勝村・勝頼」の正体まで解明できる(パズルが完成する!)のではと思っています。いかがでしょうか?

「高良に住み飽きて古宝殿城に下る」というのは妙に納得です。(笑)
あの山より下界の方が楽しそうですものね。
教えていただいたネット検索、してみました。
高良山に何十もの山城があったとは、全く知りませんでした。
阿志岐村が浮羽から八女近くまで広がっていたというのは
どちらにも巨勢川の名称がある(?)ので、ひとつの文化圏だったと充分に考えられます。
くじらさんが指摘されたように、葛城が巨勢まで掌握していたという真鍋家の伝承も興味深く、愛読者さんの言われる「葛」がらみで見て行くと、新たな古代世界が見えそうですね。

この高良大社~阿志岐コースは今年 のお盆に宝満川に沿って神社巡りしながらドライブしたばかりです。

以前、ルナさんが書かれた文章ですが、この天ノ川の北端と南端に二つの阿志岐が存在したわけですね。
阿志岐をつなぐ南北線上を地図で見ると、ちょうど御勢大靈石神社【みせたいれいせきじんじゃ】が中間点にありました。
そのすぐ南には、天ノ川により添うように、七夕神社も見受けられます。
高良山の阿志岐山城を捜していたら、吉木の地名も出て来ました。
何だか怪しい。
小郡市から筑紫野市にかけて、北に向かって走ると、宝満山がだんだん三角形の秀麗な姿を現して来て、心奪われます。
古代の人も船で行きながら宝満山に特別な思いを掛けたのでしょうね。
ところで、一つ訂正が。「ありなれ川」の北端は博多湾です。
那の国と有明海が繋がっていた時代の話です。
宝満川の東西の七夕神社関係はそのミニチュア版かなと思っています。
ちなみに、宮地岳(筑紫野市)と宮地嶽(福津市)の言葉の由来は北の方をさす意味らしいです。
宮地岳の南は中つ海なので、どこから見るのだろうかと思ったら、高良山の方からだと真北なのですね。
久留米地名研究会で教えて貰いました。
童男丱女岩は東西のラインを持っているらしいです。
宮地岳はよほど重要な山なのでしょうね。
高良山を含む耳納スカイラインは尾根道を走る観光道路なのですが、
今思えば、昭和の初めまでは山道だったのでしょうね。
左は筑後平野を見通すのですが、右は八女の広大な山塊が見晴らせます。
そこにも人々の営みがあるのだと、驚いた記憶があります。
逆に八女の方から見たら耳納スカイラインの下は絶壁で、広大な川が流れる文化の果てる地に見えたかも知れません。
景行天皇の伝承がある地です。

お~。高良山にも吉木があるのですか。私も以前、太宰府の阿志岐を調べていた時にも阿志岐のすぐ近くに吉木の地名を見つけて調べたことがありました。
こちらの吉木は、江戸時代くらいの新しい地名で、阿志岐の人口が増えたので村を分けることになったらしく、縁起を担いで、「アシキ」の「アシ」の音を「悪し」に通じるから「吉し(ヨシ)」に変えようということになり、吉木(ヨシキ)という地名になったとのことです。
京都の人が、葦を「アシ」と呼ばずに「ヨシ」と呼ぶのと同じメンタリティーですね。

なるほど。では、ありなれ川は関門海峡のような海峡だったものが、太宰府の針摺から水城のあたりで途切れて、御笠川と宝満川に分かれたという感じですね。
宝満山の竈門神社のあたりは、分水嶺になっており、山の西南から西の斜面に降った雨は御笠川となって、太宰府天満宮や都府楼や水城を通過して博多湾から玄海灘に流れています。
一方、山の西南から南に降った雨は宝満川となって阿志岐を通って南に流れて久留米で筑後川と合流して有明海、東シナ海にそそいでいます。

現在の合流ポイントよりも高良大社よりの久留米市合川町に筑後国府跡が存在しますので、こちらが古代の宝満川合流ポイントだった時期があるのでしょう。合川町という地名もそれを示唆していますし。
筑後国府は、調査されているだけでも東方向へ4回も場所が移動していますが、これは、川の合流地点の変化を追って移設したのではないかと個人的には思っています。最終的には 1073年に「今の符」に(第4期国庁)として移動したと記録にあります。
源平合戦後建立の久留米水天宮や、戦国時代の久留米城跡などの立地場所も当時の宝満川合流ポイントを示しているものと思います。
宝満川や筑後川の水系の変化がよく分かりました。
合川町とはこれまた然りで、目から鱗です。
久留米城跡あたりから合川町までとしたら大変化で、さすが大暴れの筑紫次郎ですね。
針摺の瀬戸については<地名・地形・伝承>から「針摺の瀬戸と水城」に。
またありなれ川の全体は高良大社(2)(5)あたりに書いています。
針摺の瀬戸は473年にふさがって、磐井が水城を建設。天智天皇が疏水式に変えています。
雷が鳴り始めたので、ここらへんで。

ほとんど絶滅したであろうアシキ氏のルーツをたどることが出来、ブログ記事、本当にありがたいです。
九州へは以前2度ほど行ったことがあります。
宮地嶽神社、せわしなくしか行けなかったので、またゆっくり参拝したいです。
背振山のイワクラの夢を見ましたが、ご先祖の記憶の断片?背振山についても色々教えてほしいです。
ありがとうございます。
ルーツの話が役に立ててよかったです。
読者のみなさんがいろいろ教えてくれて、古代の様子がずいぶん分かりました。
脊振山に関しては真鍋大覚がかなり書いています。
天壇があって、星の祭祀をしていたようです。
磐座があるのは知りませんでした。
少しずつ調べてみますね。