2012年 09月 07日
荒船神社(4)消えた神籠石の名称・阿志岐山城は何を守っているのだろうか
荒船神社(4)
消えた神籠石の名称
阿志岐山城は何を守っているのだろうか
さて、荒船神社が海神三神を祀る船着場だった可能性が大きくなったのですが、
もう一つ知りたい事がありました。
それは「阿志岐山城とは関わりがあるかどうか」という事です。
そこで取り出したのが『あつまれ!古代山城』(古代山城サミット実行委員会発行)
という、平成22年に発行された資料です。
その資料を見ると阿志岐山城については
「神護石系山城 阿志岐城跡」という名称が付いていました。
(古代山城サミットでは、石塁があるものは(水城以外)すべて山城として、
朝鮮式と神籠石系に分けています。)
そして今年それが国指定になった時、「神籠石」の名前が消えていました。
いったい神籠石とは何だろう。
学界から神籠石の名称が消えていく理由は何だろう。
いろいろと考えさせられます。
ま、とにかく阿志岐山城を見てみましょう。
資料の写真をご一緒に。

これは宮地岳を空から撮ったものです。
北の方から撮ったらしく、まるで蜘蛛か蟹がこちらを向いて
両足を広げているように見えます。

次は一枚目の写真の中央から右寄りの付近の拡大写真です。
これには山城が赤線で示してありました。
これを見てあれれ!? と驚いてしまいました。
いったいこの石塁は何を守ってるんだろう。
赤線が囲んでいるのは谷なのです。
お城なら城主の住まいを守るように造るのでは?
説明文を読んでみましょう。
福岡県筑紫野市に所在する。平成11年に発見され、宮地岳(標高338.9m)の北西に面する標高約140~250mの山腹に立地する。
外郭の推定総延長は約2.3㎞で、そのうち列石を伴う土塁線約1・3㎞が確認されている。
城門や建物等の施設は未確認であるが、水門が3か所確認されている。その中で比較的良好に残存している第3水門は、谷を横断する石塁により構築されており、最大規模の施設である。また、列石を伴う土塁が複数ヵ所で調査されている。

この地図は上が北で、前出の写真とは逆向きです。
もし城主の屋敷を建設するなら山頂部にしか平地がないのですが、
石塁はその山頂を守っている防衛線には見えません。
一番の問題は水門です。
水門が麓寄りにあるという事は、飲み水の確保にはならず、
籠城の時の役には立ちません。
これは城ではないのでは…。
そこで「谷を囲む神籠石」という視点で他を探してみました。
すると鹿毛馬(かけのうま)神籠石(飯塚市)がよく似た構造をしていました。

川を挟んで神籠石が組まれています。
これも山城と書いてありますが、防衛施設には見えません。
狩野久・元岡山大学教授(日本古代史)は、阿志岐山城の性格を「白村江の戦いでの大敗後、中央集権的に築造された軍事防衛拠点の一つ」と解説した。
という文をネットで見つけましたが、
鹿毛馬神籠石と同様に防衛の意識が希薄な阿志岐山城を、
「中央集権的に築造された軍事防衛拠点」とするのは早計ではないかと思いました。
私はこの二つの神籠石に関しては
水を大量に使用する生産施設ではないかと考え始めています。
神籠石とは筑紫の古代史を歩むものにとっては大きな謎であり、
かつ、愛着が深いものです。
神籠石とは「神が籠る石」という意味です。
その名を消して、遠い近畿勢力に結びつけるより、
地元の倭国の施設として考えるのが基本ではないでしょうか。
いずれにしろ、今後の発掘成果に注目したいと思います。
さて、神籠石はこれくらいにして本題に戻りましょう。

荒船神社が関連の地図に載っていないので、
いくつもの写真を見比べて推測ラインを赤色で描いてみました。
正確な地図が手に入るまで、これを載せておきます。
荒船神社は阿志岐山城から見ると麓にありました。
阿志岐山城を造ったり、維持したりする人々を乗せた船が停泊する船着場。
荒船神社はその上にある見張り場であり、祈りの場だと考えました。
この湊は「中つ海」を巡行する連絡船の船着場でもあったのでしょう。
宮地岳は周囲を取り囲むようにして神社がいくつも並び、
山中には童男丱女(どうなんかんじょ)岩という徐福伝説を持つ磐座もあります。
この宮地岳は久留米市の阿志岐などを含めた「中つ海文化圏」として
アプローチする方が、方向を見誤らないと思いました。
宮地岳については別の角度からいつかアプローチしたいと思います。
今回は沢山の情報をコメントやメールでいただいて助かりました。
ありがとうございます。
ときどき、ポチっと応援してくださいね。

にほんブログ村


神籠石のあるどの山も阿志岐・筑後川・宝満川等を含む筑紫主要部が一望のもとに見渡せますよね。
今までに誰か「神籠石の山眺望写真集」など作っていないでしょうか?
そう言えばそうですね。
そんな視点の研究があってもよさそうですね。
神籠石については、誰か研究しているのでしょうか。
ブログが盛んなこの時代に、神籠石を歩いてくれる遺跡ウォーカーがいてもいいですよね。
もう在野で研究しないと、真実が見えて来ないような。
この神籠石は地元の福岡の人が責任もって調べる必要がありそうですね。

阿志岐城跡を先日、目の当りにして、感動し、地元の高良山の神籠石さえ、ろくに見ていないのを反省しました。
この冬には、女山周辺の無名古墳の探索予定なので、一部を除き、荒れ果てているるらしい神籠石も同時に訪れてみたいと思っています。
実は筑後国造さんがやってくれないかな~と思ってたんです。
古墳と神籠石の関連性なんかも印象をコメントしてくださいね。
それと眺望の写真も!
外堀が分かると天守閣の位置も見えて来そうですね。
高良山の神籠石を一周したとくじらさんが言ってありました。
女山も言ったと聞くけど。どうだったのでしょうか。

すごくクリアですね。
高良山がよく見える!
高良山から宮地岳が見えるのを確認したので、三つの神籠石の山は目視出来る事が分かりました。
何だか、古代世界が生き生きとしてきます (^-^)
例の古墳の光芒、太陽祭祀線。すごく興味があります。


確かに、安心院とここは似ていますね。
どちらも湖沼地帯と小山。
1600年頃なら、砂鉄原料でなく、鉄鋌などが搬入されたもかもしれませんね。
それこそ、犬鳴や津屋崎で造られた鉄かも知れません。
先祖ルートかなり進展されたようですね。





