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ひもろぎ逍遥

ウチ考(3)内の一族


ウチ考(3)
内の一族
 

竹内宿禰が特別扱いされているなあと思われるのが『日本書紀』。
景行天皇の記事の中に、何故か竹内宿禰の出生話がさらりと挿入されています。

それがこの部分。
景行3年の春2月1日に景行天皇は紀伊の国に出かけて、もろもろの神祇を祭祀しようとして占いましたが、吉ではありませんでした。そこで行幸は中止になりました。

代わりに、ヤヌシ・オシオ・タケオ・ココロの命を遣わして祭祀をさせました。ヤヌシオシオタケオココロの命が詣でて、阿備(あび)の柏原で神祇を祭祀しました。

そこに9年間住みました。その時、紀の直(あたい)の遠祖ウヂヒコの娘の影姫を娶って、武内宿禰が生まれました。

この前後は普通の文脈です。
興味のある方はサイドバーの「景行天皇」で確認して下さい。

竹内宿禰はタケオココロ命が景行天皇の代わりに祭祀をした柏原で影姫との間に生まれました。
「柏原」の場所はまだ特定されていません。

「紀伊」の国での話となっていますが、同じ発音で「基肆」と書くと佐賀県です。
父親のタケオ・ココロ(武雄心)命はその佐賀県の武雄(たけお)市に祀られています。
母親の山下影姫は「基肆」の隣の小郡市に祀られています。
竈門神社と言って、影姫の墓所だと伝えられています。

過去記事は以下。
   竈門神社(玉母宮)かまどじんじゃ 福岡県小郡市力武宮の脇
   竹内宿禰の母・山下影姫の墓所だった
   http://lunabura.exblog.jp/16421532/


父も母も有明海~筑後川流域に痕跡を残しています。
紀伊国は基肆国の書き換えの可能性があります。

「紀伊」で思い出すのは徐福伝説です。
有明海~筑後川流域もまた徐福伝説に満ちています。
「キイ」というのは徐福たちの拠点だったのではないかと最近考えています。
それと重なる竹内宿禰の両親たちの伝承。
ウチ家が徐福のもたらした先端技術に触れている可能性は高いです。

さて、『日本書紀』の中でもう一カ所竹内宿禰にこだわった所があります。
それは更に古い時代、孝元天皇の所です。
ここは系図だけが書かれている短い章なのですが、竹内宿禰へ導かれて行くような文脈です。
彼につながる事が当時のステイタスだったのでしょうか。

それらを組み合わせて書いた系図が次の図です。

ウチ考(3)内の一族_c0222861_239501.gif

孝元天皇はウツシコメ命とイカガシコメ命の二人を后にしています。
二人はウツシコオ命からみると妹と娘です。
妹からは天皇たちが生まれ、娘の系統はは竹内宿禰へと繋がっていきます。

このウツの字は古事記では「内」・日本書紀では「欝」が当てられていて
「欝」は「ウチ」とも「ウツ」とも読めます。
私はこの一族をとりあえず「ウチ家」と秘かに呼んでいます。

孝元天皇は「ウチ家」に妻問いして、経済的基盤を得たようです。
兄妹の「ウツシコオ」と「ウツシコメ」という名前の付け方はいささかアバウトな感じがしますが、
その「ウチ」の名が竹内宿禰に引き継がれたのではないかと考えているのです。
(竹内宿禰の異母兄弟に味師内宿禰という名もみえる。)

系図を見ると竹内宿禰の先代までは「命」がついていますが、
彼の世代になって宿禰に降格しています。
古事記に至っては、タケオココロの命の名前が消滅しているのです。
何か異変が起こったのでしょうか。ちょっと気になりますね。

さて、上の系図に神功皇后の系譜を加えてみました。

ウチ考(3)内の一族_c0222861_23107100.gif

仲哀天皇と神功皇后は開化天皇から枝分かれしています。
さらに一世代上の孝元天皇で竹内宿禰の系譜と分かれています。
要するにこのブログで御馴染みの三人、仲哀天皇と神功皇后と竹内宿禰は同じルーツなのです。
三つの系譜はそれぞれ天皇・王・命という流れです。

仲哀天皇と神功皇后の婚姻によって、ウチ家の結束が強まっています。
竹内宿禰が仲哀天皇と皇后を支えたのは同族だからです。

この三者が一堂に会して戦ったのが新羅です。
新羅との戦いは「天皇家」というより「ウチ家」の事情と言った方がよいかも知れません。

「ウチ家」が天皇家の経済的基盤だとすると、当然ながら経済を支える産物があったはず。
当時の宝物は鉄と銅と金、水銀などの鉱物だと思っています。
ここに、先述の徐福の先端技術が関わっている可能性はないかな。

「ウチ家」の人が住んだ所には「ウチ」という「地名」が残っているかもしれない。
そこには何らかの金属鉱山などの痕跡があるのではないか。
弥生の集落もあるだろう。

「ウチ」と「鉱山」「弥生」が組み合わさったものが私の探す「内」の都かも知れませんね。

竹内宿禰にしか用例のなかった「たまきはる うち」が
古田武彦氏が言われるように飯塚市の内野で詠まれたものだとすると俄然、期待は大きくなります。
(つづく)


ウチ考(4)天神社 出雲神と道真公を祀る宮
http://lunabura.exblog.jp/18539365/





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Commented by 愛読者 at 2012-10-07 00:21 x
『高良山「古系図」』では、初代 孝元天皇、二代 彦太忍信命、三代 屋主忍武雄心命、四代 高良玉垂命神、五代 朝日豊盛命神(玉垂命次男)・・となっていますから、これなら玉垂=武内宿祢となりますが、玉垂命は女性なので、武内宿祢の姉かもしれませんね。
 倭人伝に卑弥呼に「男弟有り(有男弟佐治国)」とあり、隅田八幡伝来「人物画像鏡」にも「男弟王」、多利思北孤にも「我が弟に委ねん」とあるので、呪術的天子には弟がいて政軍務を司るのが伝統だったと思われますから。
もちろん玉垂命=神功皇后説に立っての話ですが・・
Commented by lunabura at 2012-10-08 08:58
『高良山「古系図」』とかあるんですか!すごい史料ですね。
これは日本書紀とつながる系図なんですね。
確かにおっしゃる通り、武雄心命の子なら竹内宿禰かその兄弟が該当する事になりますね。
ところで、ふと自分のブログの九躰皇子の記事を思い出して見直したのですが、『神秘書』では神功皇后の夫は仲哀天皇と物部の保連。
二男となると仲哀天皇との子供。

だけど、高良大菩薩は物部の保連。

私は『神秘書』の系図はあまり当てにしていないのですが、
この辺りの矛盾が却って謎解きの手がかりになりそうですね。
Commented by のら at 2012-10-23 22:40 x
るなさん、こんばんはです。
何処に書こうか迷ったんですが、その内容に合った所に書きます(>_<)
地元民として何か調べられないかなぁ?と思い持っている『長崎街道 1』を開いた所衝撃的な事が!!(泣)
飯塚の「内野宿」という名前ですが、貝原益軒の『筑前国続風土記』に「内野邑昔は無し」とあり、それ以前に人は住んでいても内野の地名は無かったそうです(T_T)
ただ水田も少なく一帯は良い狩場であったと『黒田家譜』に見えるそうです。ではいつ『内野』になったか。
黒田長政の筑前入国に伴い多数の家臣を採用し、その中に秋月家浪人の大庭内蔵助の孫に当たる内野太郎左衛門が居たと。この太郎左衛門が内野宿を開き、自分の出身地の地名をとって付けたとあります。
ん?じゃあ秋月にも「内野」があるって事ですかね?
一寸衝撃的だったので私的に大人しくしてましたが、「内住・大野」は別もんかもと思い書いてみました。
Commented by lunabura at 2012-10-23 22:59
わお。すごい情報。
大変な事に。
江戸時代に出来た地名だとすると、「たまきはる内野」の飯塚説は消えて行く!
江戸時代のお狩場があったという話は私も資料で見ましたが、あの辺りが現地だったのですね。
のらさん。大収穫ですね。
取り敢えず、候補地の一つは消えました。
新たに浮上した高良内の内野が俄然、クローズアップですね。
早良の内野も誰か調査してくれないかなあ。
Commented at 2018-05-23 19:11 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2018-05-23 23:10
ああ、内は鹿児島にもあるので、語源になるかも!
目から鱗です。
意見はどんどん交わしましょう^^
by lunabura | 2012-10-04 23:14 | ウチ考 | Comments(6)

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