2012年 11月 02日
永尾剱神社(3)「双子座」を筑紫では「聖母の星」と呼んでいた・背振山と神功皇后
永尾剱神社(3)
「双子座」を筑紫では「聖母の星」と呼んでいた
背振山と神功皇后の祭祀
永尾剱神社に冬至ライン?
今日は前回省略した「二つのセントエルモの火」についてです。
「セント・エルモの火」の説明文をもう一度読み直しておきましょう。wikiから
悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象。
大プリニウスによれば、古典期のギリシアでは、発光が一つの場合「ヘレナ」、二つの場合「カストルとポルックス」と呼んだ。
アルゴー船の神話によると、同船に乗り組んでいたカストルとポルックスの頭上に光が灯ったところ嵐が静まったので、この双子は航海の守護神とあがめられ、船乗りの間ではセントエルモの火が二つ出現すると嵐が収まると信じられたという。
ここに双子の「カストルとポルックス」が出て来ますが、
これは明らかに双子座の二つの星の名前です。

この双子座は日本では「聖母の星」と呼ばれていました。
「聖母(しょうも)」とは誰?
それがこのブログでお馴染みの神功皇后の事なんです。
ホムダワケ皇子を抱いた神功皇后の姿を「聖母の星」に見立てていました。
今回はその辺りを『儺の国の星』で読んで行きましょう。p186
(読みやすくするために一部変更しています)
聖母の星(しょうものほし)
筑前国続風土記 巻21早良郡背振山の条に
山上の御社は、神功皇后三韓を攻めたまいし時、祈願のために是を立て祭り給いしという。神功皇后はこの国に七社を創立したまう。背振の社もその随一なり。
背振山は山岳信仰が盛んな山として、シンポジウムが最近行われたようですが、
そのずっと昔「神功皇后が三韓攻撃の勝利を祈願した」と貝原益軒が伝えています。
この山から玄界灘の航路を見定めたという話もありましたね。
真鍋氏は益軒の話を引用したあと、双子座について説明を始めます。
地中海民族はカストルとポルックスが一対をなす双子座ジェミニが船人の大きな目標であった。双子座は8月12日の暁に西に入り、6月26日の暁に東に上がる。
神功皇后元年の5月1日は陽暦6月18日であり、その前年、仲哀帝9年は5月1日は陽暦5月31日にあたる。歳差25日を以てすれば、月の3日に天を祈る儀式が西域の伝統に則して行われたことになる。
雲間の星影は一つだけではそれが何であるか判じ難いが、二つ相並ぶと、もはや疑う余地がなく、更には二つを結ぶ軸の方位で時と所を二つながら見定め得ることになる。
双子座の二つの星は、街の明かりで星影が薄くなった現代でも、
よく光っていて、色が微妙に違って並ぶので、すぐに分かります。
そんな双子座は地中海の船人の指針となりました。
双子座の特徴は6月26日には夜明け前に東から昇るのに対し、
8月18日の夜明け前になると西に入るという、大きな特徴があり、
時と所を教えてくれる大切な星座だったという訳です。
その後、神功皇后「元年」の説明になります。
???
「月の3日に天を祈る儀式が西域の伝統に則して行われた」という部分の
「月」は「何月」というのが欠落しているのでしょうか。
(歳差が25日ということなのですがよく分からない。誰か得意な方計算して下さい。)
文脈からは、神功皇后が背振山上で行った儀式は西域のやり方を採ったと解釈できます。
真鍋氏は続けて背振山の当時の夜明けを計算します。
航空自衛隊背振山基地の各位の測定によれば、社殿は南面して東寄りに17.0度となっている。これに磁石の偏差6.0度を加算すれば23.0度となる。
既に仲哀帝9(200)年より九州島の自転は5.31度に達しているから、当時の日の出は左手東より北に17.6度であった。
伝説によれば神功皇后は2月6日(3月8日)戊申の仲哀帝崩御から50日後の3月26日(4月26日)丁酉に御輿(みこし)を上げられたのであるが、双子座を西海(ここでは九州か)では聖母星と呼んでいた。
神功皇后(201~269)と応神帝(270~312)をみたてた名であるから、いつのころか八幡信仰が世人に守られて以来のことである。
真鍋氏は古社の向きは測量して決めていたと考えていて、
現代との角度の差を利用して創立年代がいつなのか、いくつかの神社で計算しています。
この背振山頂の古社についても、上記のように計算していますが、
私にはまだこの文の意味がよく分かりません。
それでも、この部分を読みこむと
双子座と地中海船人 ― 聖母の星と神功皇后・応神天皇 ― 八幡信仰
というラインが浮かび上がってきます。
これはいったい何でしょうか。
八幡様といえば応神天皇の事ぐらいは分かるのですが。
神功皇后は地中海の信仰を行った…?
う~む。
これを解き明かすにはまだまだ力不足だな…。
それはそれとして、これまでの神功皇后伝承から考えると、
神功皇后は竹内宿禰や中臣烏賊津使主・物部の胆咋たちと背振山頂に登って夜を明かし、
夜明け前に東に双子座が昇り出すと、航海の守護を祈る儀式をし、
次第に空が白んで太陽が昇るとその太陽を祭祀する。
そんな古代の情景が真鍋氏には見えていたのだろうと想像できます。
真鍋氏は計算に「磁石の偏差と九州島の自転角度」の要素を加えています。
九州島の回転は1800年間に5.31度に達しているのですね。
九州島は宮崎沖の日向灘に沈み込むようにして右に右にと傾いているので、
3.11以来さらに角度は大きくなっているかも知れないなと思ったりしています。
そして、この5・31度を知って、ハタと気づく事がありました。
それは、日拝塚古墳とか、平原遺跡とか、東西の祭祀線軸を意識した遺跡が
微妙にずれている理由が、
この「歳差運動と九州島の自転」によるものだったという事です。
この計算ができれば、いよいよ平原遺跡の年代とかが推定できるのになあ。
(私にはその技量がない…)
平原遺跡は既に約30日ほどのズレになってますよ。
そして、この永尾剱神社の岬からの眺望には冬至ラインが…?!。

これは拝殿に奉納されていた「冬至」です。
え?という事は、あの岬は冬至ラインを意識している?
写真を見ると鳥居が微妙に傾いています。
歳差運動で傾いてる?
この神社には太陽祭祀線が組み込まれているのだろうか?
あわてて、先ほどの岬に戻ってみました。

観察すると、この岬に対して鳥居と参道ラインは微妙にずれていました。
あの鳥居は新しいけど、古代からあった位置に再建されたのだろうか。
もし、きちんと冬至ラインを意識した仕掛けがあるとしたら、
むむ。ますますこの聖地は面白い所となります。
(つづく)
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
非公開さん、こんにちは。
この分野は感覚的にはイメージは多少できるのですが、計算はまったく駄目です。
是非とも、よろしくお願いします。
自転軸の変化は、たとえば、江戸時代でしたか、
機織りの女性が毎晩北極星を格子越しに眺めていて、
ずれが起こった事を発見したという話を読んだことがあります。
真鍋氏も、その話を本に書いていました。
3.11でも、少しぶれたという話はネットで拾いました。
九州島は特に北部が右回転しながら隆起しているのでしょうか。
かなりの難度ですね。
また教えてください。 (^-^)
この分野は感覚的にはイメージは多少できるのですが、計算はまったく駄目です。
是非とも、よろしくお願いします。
自転軸の変化は、たとえば、江戸時代でしたか、
機織りの女性が毎晩北極星を格子越しに眺めていて、
ずれが起こった事を発見したという話を読んだことがあります。
真鍋氏も、その話を本に書いていました。
3.11でも、少しぶれたという話はネットで拾いました。
九州島は特に北部が右回転しながら隆起しているのでしょうか。
かなりの難度ですね。
また教えてください。 (^-^)
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by lunabura
| 2012-11-02 21:11
| 神社(エ)
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