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永尾剱神社(4)ザビエルの前に筑紫に入っていた聖母マリアの信仰


永尾剱神社(4)
えいのおつるぎ
ザビエルの前に筑紫に入っていた聖母マリアの信仰

「聖母」を「しょうも」と読めば神功皇后ですが、「せいぼ」と読めば聖母マリアです。
この地方は天草四郎で有名なように、キリシタンの信仰が栄えた地。

キリスト教が簡単に受け入れられた背景として、
キリストの死後200年までには、その信仰の人たちが九州に入って来ていたために、
1000年以上経って再び耶蘇教が入ってきた時、
容易に受け入れられる文化的土壌があった事を真鍋氏は示唆しています。

それでは、続きを読みましょう。
遠く『山海経』の頃から「女を以て主となす」が倭人の家の習いとして大陸に知られていたところを見れば、神代の昔は(双子座は)二人の兄弟姉妹よりも、母が我が子を抱き、子を負う姿に託していたと思われる。妹背星(いもせほし)ともよばれていた。

聖母とは神功皇后で、応神天皇の生母であった。近世までは聖母様、あるいは聖母大明神として仏堂の観音像とならんで神祠の聖母像の女人の懐胎出産の祈りの対象であった。

聖母の字はキリスト(紀元前4~30)の母なるマリヤを直観させる。

聖書が倭人に伝えられたのはザビエル(1506~1552)に始まるが、当時の人に宣教師の説くマリヤがいかに映じていたかは不詳である。

しかし、西海でキリシタン禁令の出る慶長17(1612)年までに、あれだけの爆発的多数の信者を集めた背景には、古来の聖母信仰が潜在的基盤を形成していたのかもしれない。

基督(キリスト)教の信仰の自由は明治6年(1873)年から再開されたが、昭和16年(1941)年から同20(1945)年の大東亜戦争の間は、事実上の耶蘇教禁止にほかならなかった。

そして終戦の冬には神道仏教のいかんにかかわらず、九州はどこの僻地もありあわせの食膳でささやかながらも聖誕祭を祝ったことは、今なお記憶に新たなところである。

聖母の名は島原の乱以後の近世の神社からは聊(いささ)かも抹殺されなかった。
宗門改め(しゅうもんあらため)の認定尋問が年毎に行われていても、聖母様の祭日なる陰暦12月14日には神官氏子こぞっての団欒がお火焚祭(おひたきまつり)の形で続いていた事実は史家の気付かぬところでもある。

後半は「聖母」が神功皇后を指すのか、マリアを指すのか分からなくなりました。
これが口述筆記の難しい所です。

「聖母様の祭日なる陰暦12月14日」というのが問題の所です。
そこで調べてみると、陰暦12月14日は応神天皇の生誕日なんですね。
だから、この聖母様とは神功皇后の事でした。

筑紫の人々が双子座を見て、「仲の良い双子」を思い浮かべるのでなく、
「神功皇后が皇子を抱く姿」を思い浮かべるのは、
その潜在意識に「聖母マリアがイエスを抱く姿」があったからだと氏は示唆します。

そう言えば、キリストが生まれたクリスマスの12月25日に近い14日に
ホムダワケ皇子が生まれたという季節感も、
イメージを重ね合わせる助けになったのかもしれません。

イエスは紀元前4年生まれ。(と真鍋氏はベツレヘムの星から計算)。
応神天皇は紀元200年生まれ。
この間、200年の差しかない事に注目すると、聖書が編纂されるよりもずっと前に
「子を抱くマリアの姿」が筑紫に入っていたという計算になります。

中東からいろんな民族が日本にやって来たという事は分かっているのですが、
こうして具体的な祭や信仰の背景を教えて貰うと、
「物や人」と共に、「心」もまた伝わっていた事を肌で感じる事ができます。

これは弥生時代の話ですよね。
伊都国で発見されたビーズのネックレスがインドより西の方でしか
生産できないものだと言う事が科学的に証明されましたが、
「物と人と心」、
これらは分かち難いものだと改めて考えさせられます。

さて、その「心」はどのように根付いているのでしょうか。
氏はさらに詳しく述べています。

邪宗門は隠れキリシタンの形で西海の離島ならずとも、特に筑前肥前の山間僻地で人しれず占星術の形にごく醇朴に率直に守られてきていたところをみると、遠くはるかな悠久の昔に、中東で景教や回教の経典が完成する以前の姿が筑紫に根をはっていたものと推定される。

山里の人々はキリシタン禁令に対して宗教信仰にこりかたまった狂信的信徒によくある対抗的反抗的意識もなければ、諦観に似た寂莫の無表情もなく、ただ何事のあるかをしらず、何事のあるかをしらず、何事の坐(い)ますかを疑わず、星座に一心に合掌していた。

よく信仰の団結を誇張するあまり、いわゆる歴史家が殉教に生々しい描写を連ねるのを常識としているのは、度をはずれた波の飛沫の如き一瞬の描写にすぎないことを銘記せねばならぬ。

この「筑前肥前の山間僻地」というのは背振山系を指していると思われます。
ここには人知れず占星術が伝わっていて、
それは景教などの経典が完成する以前の姿だと氏はいいます。

背振山の北では中臣氏が北の星空を観測し、南では物部氏が南の空を観測し、
吉野ヶ里の人々は高度な青銅技術を花開かせていました。

ところで、景教についても確認しておきましょう。wikiから
ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれ、431年、エフェソス公会議において異端として排斥された。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。

異端とされたのが431年でした。景教と呼ばれた唐の時代は7世紀~。
背振山系の山里にはこれより以前の、教会組織化される前の素朴な信仰が
淡々と受け継がれていたようです。

さて、『儺の国の星』はこの後、白鳥座などの話になります。
今回はそれは省略して、その先を読んでおきます。
ウラルアルタイ民族は特に巫女の居室には鳥の首を象徴した彫刻を飾り付ける習慣があったから、その遺風にしたがって、天鳥船が往来を守る神として、あたかも鶴の頭と鵞(かも)の首に似た竿を立てたかの如き石塔を港や岬に安置した。この遺物が十字架の風波に削られた姿と見る学者が多い。

歴史は傜(かさみ)の長い柱をキリストの死に際の体を支えた十字架に置き換えたのであるが、この時代は近世のわずか200年の出来事にほかならなかったのである。

耶蘇教が神代の天原(あまのはら)、倭人伝の頃の末廬(まつりょ)今の松浦(まつら)の人々に支えられたのは、胡人の血液が西域の聖人の教えをすなおに吸収するだけの素質がまだ乾き切っていなかった証拠であったと思われる。「血は血を呼ぶ」なることわざがこれであった。

「天原」が久し振りに出て来ました。
古代の北部九州は「ありなれ川」(御笠川~筑後川)で左右の島に分かれていて、
左の方は島が多くて海人(あま)が多かったので、「アマノハラ」と呼んでいました。
(そういえば倭国の王家もアマ氏でしたね…。)

当然ながら沿岸には異国からの船が到達するので、
西域の人たちがそのまま残って倭人に混ざっていく歴史も有ったことでしょう。
日本に定着した人々の事を考えると、
西暦200年頃と言えば、キリスト死後、まだ数世代目なので言い伝えもあるだろうし、祖先の信仰を受け入れる血はまだまだ濃かったという事です。

「ゑいのを」(セントエルモの火)から、思いがけない古代の世界を垣間見ました。
「マリア信仰」と「神功皇后信仰」が「聖母の星」を通して繋がったのは驚きです。
いつかは、自分の目でこの聖地から不知火を見たいものです。

それでは、ゆるりと永尾剱神社の細長い参道「エイの尾」を歩いて帰りましょう。

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参道は両側が崖です。
「弥生の道」と私がこっそり呼んでいる地形です。





地図 永尾剱神社






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by lunabura | 2012-11-04 01:03 | 神社(エ) | Trackback | Comments(2)
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Commented at 2012-11-07 18:10 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2012-11-07 18:47
待ってます (^-^)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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