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斎宮の地図と猪野と銅


斎宮の地図と猪野と銅


ようやく上巻の推敲が終わって、一段落。
今日は資料の整理に一日を充てる事にしたところ、
行方不明になっていた地図が出て来ました。

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その地図は粕屋郡久山町の斎宮(いつきのみや)の字名を記したもので、
その地名の謂われが書かれていたものが添付されていました。
上の写真は地名と謂われを突き合わせたものです。

その地名の例を挙げてみます。

聖母屋敷(しょうもやしき)―神功皇后の屋敷
外園―斎宮の外苑、
尾園―斎宮の内苑、
古門(ふるかど)―斎宮の門、
堀之内―殿上人の住居があった所、
地下並(ぢげなみ)―神官、地下のいた所、
上ミ(かみ)ー神域、
下タ(した)ー一般庶民のいた所、
丁ノ坪(ちょうのつぼ)―官人が斎宮参詣の時に泊まった長路館があった所、
馬生免(ばしょうめん)―馬から下りる所、
片山―警護要衝の所

これは一部ですが、斎宮を皇宮殿として百官の配置が分かるような地名です。

当時の都は香椎宮でしたが、仲哀天皇の急死によって緊急事態になりました。
海岸沿いにあった香椎宮では危険が大き過ぎて、
一山隔てたこの地に遷宮したと考えています。

この斎宮が香椎宮から遷宮された宮だという歴史は忘れられましたが、
それを貝原益軒が発見しました。

私は、わずか一行の文に魅かれてその位置づけを探っていましたが、
コメントをくださる方から戴いた地図を見ると、
当時の官僚たちの住まいの場所も見えて来ました。

ここで武渟川命は地元の娘との間に一子を儲けた訳ですが、
それがどこなのかも推理できそうな気配です。(⇒サイドバー黒殿神社)

しかも、これは弥生時代の仮の都がどのようになっていたのか、
あるいは奴国(那国 儺県)の皇宮の構成を再現できるようなものになります。

審神者(さにわ)神社が南西200mほどの所にあるのですが、
もう一つの斎宮、小山田斎宮(古賀市)の方にも南西200mほどの所に
至聖所があることが分かりました。
聖なる地が同様な方角にあったのは、ガイドブックを書いていての発見でした。
これもまたきちんと地図を出したい所です。

この都と同時期のクニに吉野ヶ里があり、具体的な姿が明らかになりましたが、
この久山町もまた弥生の皇宮殿を復元する資料になるものだと思います。

ただ、この斎宮は数カ月しか使われませんでした。
神功皇后の出産が12月。
春になると、ここを発ってショウケ越えをして大分宮へ遷宮します。

のちに、この斎宮(いつきのみや)は伊野天照皇大神宮とセットで、
「外宮と内宮」として、「九州のお伊勢さん」と呼ばれるようになります。

この伊野天照皇大神宮の記事をUPした夜に夢を見ました。

それは「川崎町から来た男」の夢でした。
黒い服を着ていて、中肉中背の男が出て来ただけでしたが、
ちょうど川崎町の田原麻瑠の問題を不知火書房さんと話し合っている最中でした。

なんと、私が資料にした郷土史の記述そのものが間違っていたのです。
それを不知火書房さんが発見してくれて、その対処法を話し合っていた所でした。

田原麻瑠は仲哀天皇が筑紫に来た時に、川崎町から馳せ参じて従軍。
天皇の崩御後も変わりなく皇后に仕え、出産の時には南の門を守ったといいます。
その時の白い旗を大事に持ち帰ったそうです。
そして、大分宮で連合軍が解散した後、皇后を自分の屋敷に案内して
半年も滞在させるという忠義ぶりでした。

この男の存在を知らずに正八幡宮を訪れたのですが、大事なキーパーソンでした。
見えない世界から教えられたとしか思えない人物です。
この田原麻瑠を抜きにはこの後の皇后は語れません。

不知火さんが図書館に行って綿密に調査してくれて、
正しい歴史を復帰させたタイミングに夢に現れた川崎町の男。
まさしく、田原麻瑠からのメッセージなんだと思いました。

田原麻瑠は猪尻という所に住んでいたようです。
皇后を住まわせた所は位登(いとう)という所。
すぐ近くです。
地図をあれこれと眺めていて、
位登というのは猪頭(いとう)を好字で書いたのではないかというアイデアが生まれた。
田原麻瑠は「猪(ゐ)」の下(尻)の方に住んで、
「猪」の聖地(頭)に皇后の宮殿を作ったんじゃないかなって。

ふ~ん。
ここは猪の国だったりして…。
と冗談をつぶやいていたら、「猪国」という地名が本当にありました。
読み方は分かりませんが。

そこから二キロ位の所には金国山という、鉱山を連想させる山がありました。
そして北の方を見ると、あれれ、
神功皇后が「タダならぬ山だ」と言って祀った山に連なっている。
そこでは連れていた金工に銅矛を作らせて祀っていました。
タダと言う地名は銅に関わる地名なんですね。

話は再び斎宮のある久山町にもどりますが、
「猪」といえば、伊野天照皇大神宮の伊野はもともと「猪野」なのです。
そして、伊野天照皇大神宮の後ろの山が銅山だという記述を見つけてびっくり。
また銅だ。
神功皇后と銅山は切っても切り離せない。

伊野大神宮の境内の整地の時、岩の下から銅鏡が出て来たと言う話に、
「神功皇后が置いたのかも」と冗談をコメント欄に書きましたが、
可能性はゼロではない様相。

後にこの久山町は首羅山を中心に仏教で栄えます。
斉明天皇が亡くなった時もここでも法要を営んでいるんです。

バラバラの話ですが、
私に起こったシンクロニシティをそのまま書きました。
理解しにくい話だったと思います。
普段なら、これを四回ぐらいに分けて地図をつけて記事にするのですが、
そうすると一週間は掛かってしまうので…。

これまでもこんな感じで、一瞬のヒラメキを地図に落としながら進んできました。
そうすると必ず関連性が現れて、そうだったのか、という事になります。

神功皇后の3年間を線で教えられたあとは、
古代の筑紫を「面」で教えられているような気がしています。

この話が前回の七支刀の「こうやの宮」と繋がっていくので、
このブログはだんだん、ややこしくなって行きそうな気配です。

ということで、今日も備忘録でした。

田原麻瑠は正八幡宮と位登八幡神社に書いています。(サイドバー)









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by lunabura | 2013-03-04 22:55 | 斎宮・いつきのみや・粕屋郡 | Trackback | Comments(18)
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Commented by 愛読者 at 2013-03-06 18:56 x
粕屋郡粕屋町には「長者原」「駕与丁」地名もありますね。「駕与丁」は「かつて日本の朝廷に所属し、高貴な人物の載る駕輿(がよ、輿の意)を担ぐことを主たる任務とした下級職員である」(ウイキペディアですみません)とのこと。いつまで遡れるかわかりませんが・・・(尤も現地では「かよいちょう」と読んでいるようですが・・)
Commented by lunabura at 2013-03-06 20:40
そうですね。
長者原の由来は知りませんが、駕輿丁はまたもや神功皇后なんです。

出産地に向かう途中、破水しかかった皇后を載せた駕籠をかいた人たちの住処で、皇后はそこで休息したとも伝えられています。
記事にしているので、サイドバーから駕輿八幡宮をご覧ください。
まだまだ神功皇后の存在もよく知らなかった頃の記事です。
仲哀天皇と応神天皇の区別もつかなかった私です。 (^-^)

見直したら写真が少ないので、先々UPします。
伊野天照皇大神宮の写真も見事に少ないので、只今準備中です。

そうそう、先日UPした「こうやの宮」の存続には
古田武彦先生や、古田会の皆さんの尽力があったと、先日話してありました。
私も感謝しています。 (^-^)
Commented by 愛読者 at 2013-03-06 23:33 x
これは失礼しました!3年前のブログなら読んでいたかも知れません。この頃ちょっとぼけたかな?!。駕輿丁地名については新庄智恵子さんが『謡曲のなかの九州王朝』(2004年新泉社)で触れられていたので、その印象が強かったのかもしれません。
通説では後代の寺院に由来するといわれていますが、「そんなことはない、もっと古い玉垂命・神功皇后まで遡るんだ!!」という証拠を、もっともっと現地から発信してくださいね。
Commented by lunabura at 2013-03-06 23:53
へえ。そんな通説があるんですか?
地元の方もびっくり説ですね。
愛読者さんがおっしゃる通り、筑紫の古代については、
あまりにも発信が少ないですね。
各市町村で伝承を研究するブームが起きるように願っているんです。
Commented by 桜もち at 2013-03-06 23:55 x
るなさん、こんばんは。
改名してますが、以前、岡田宮の記事で『八尋熊鰐』のコメントした者です!
猪国は、そのまま『いのくに』と読みます。
ここは神夏磯媛の話に出てくる『土折猪折』の本拠地で、猪尻、猪膝、猪鼻(岩鼻)の地名は、猪折の遺骸をバラバラに葬った場所との伝承があります。
田原麿は、猪折の被害者だったのでしょうか。
Commented by lunabura at 2013-03-07 10:14
桜もちさん、おはようございます。
見るだけで幸せになるお名前に改名で (^-^)

おおお。
衝撃情報。
土折猪折の地なんですか (@_@。

田原麻瑠は猪折と鉱山を巡って争っていて、景行天皇の遠征で決着がついたという可能性がありますよね。

そうすると、彼がその孫の仲哀天皇の遠征にいち早く駆けつけるのも納得。
猪尻という地名もそんな成り立ちだとすると、
田原麻瑠一族は土蜘蛛の領土の要を押えて住んだという可能性もありますよね。

またまた調べるのが楽しみな場所になりました。

Commented by 桜もち at 2013-03-07 22:36 x
るなさん、こんばんは。
田原麿と猪折の直接対決は可能性低いのでは?
日本書紀の記述で考えると事件当時、日本武尊は1歳前後、仲哀天皇崩御が52歳…田原麿は、まだ少年だったのでは?
『以多掠人民』とあるように掠めとられた民の一人で成長後、一帯を治めるようになった。と考えるほうが、忠義心の理由になると思うのですが。
何れにしても、ここは要害の地だと思います。一山越えれば馬見山の麓ですし。
Commented by lunabura at 2013-03-07 23:47
なるほどですね。
何故か熟年を思い浮かべていました。
確かに、桜もちさんの洞察の通りですね。

ところで、ここには緑野とか、今でもあるのですか?
また猪膝とかの地名はどうしたら調べる事ができますか?
ごぞんじでしたら、教えてください。
Commented by ShrinePriest at 2013-03-08 11:39 x
御無沙汰しております。
なかなか時間もとれずに時々閲覧だけさせて頂いていました。

お送りした地図等、お役に立てて頂いて嬉しい限りです。
個人的には調べものをする時間も取れずにいる為
ずっと放置されたままになっていた資料ですので
このように日の光を浴びたことは喜ばしいことだと思っています。
Commented by ShrinePriest at 2013-03-08 11:40 x

さて、『愛読者』さんとコメントされている【長者原】の由来ですが、
昭和43年12月に発行されている『粕屋要録』の中にこのような記述がありました。


長者原
 内橋と亀山の中間地帯は昔の長者原で今は原町と呼ばれるのであるが、この境域内に所謂長者の
屋敷址などと考証されている地点あり長者に絡った伝説をもつ鶴見塚もある。長者とは葛子長者だ
とも謂はれ、大城長者だとも伝へられているが、葛子長者には継体天皇の二十二年筑後地方に於て
叛乱した筑紫の国造磐井が誅に伏し葛子も父の罪に坐して誅せられんことを恐れた結果「糟屋屯倉」
を献じ、死罪を贖うたということが日本書紀に出ている。これが糟屋その地名の国史に見えている
最初のものである。従って長者伝説を有つ原町は当年糟屋屯倉の置かれた遺址であらうことは間違
のない事実であらう。

(原文のまま)


ちなみにこの本、『非売品』となっていました。

お役に立てば幸いです。
Commented by 桜もち at 2013-03-08 22:00 x
るなさん、こんばんは。
まずは『緑野』ですが、以前かなり調べたのですが現地名では見あたりませんでした。但し、この地区を流れる2河川、中元寺川は上流の添田町中元寺に由来、猪位金川にいたっては明治以降の合併により出来た地名(猪国(猪膝+金国)+位登=猪位金)なので、このどちらかが古代『緑野川』だった可能性があると思います。
次に『猪膝』ですが、前記の通り明治以降の合併で猪国に変わってますが、秋月街道『猪膝宿』跡として名残があり、旧街道沿いに白鳥神社(祭神、日本武尊)があります。近くには日本武尊が猪折討伐後、剣を洗った(当時はまだ赤子の筈なのに…)との伝説の『太刀洗の井戸』もあります。
Commented by 桜もち at 2013-03-08 22:04 x
すみません、続きです。

『猪鼻』は、猪鼻なら隣の旧山田市に猪之鼻が、岩鼻なら猪位金から大任町へ行く国道322号沿い、川崎町田原と大任町の間にあります。
因みに『位登』は昔『糸』と表記していたらしい(私は、るなさんの『猪頭』説を支持します!)ので、もしかすると糸田町まで領土だったのかな。とも考えています。
Commented by lunabura at 2013-03-08 23:01
ShrinePriest さん、こんばんは。
訪問戴いて嬉しいです。
戴いた地図はファイルに入れて大事にし過ぎて、行方不明となっていました。
でも、このタイミングでよかったと思っています。
今、字名と突き合わせている所で、若干分からない所も出て来ました。
これからの予定として、地図にプロットしたあと、
グーグルの航空写真にかぶせたりして、
基礎資料を作ろうと思っています。
よかったら、その時アドバイスをください。 (^-^)
すごい資料だと思っています。

また、長者原が葛子の屋敷跡としたら、是非とも調査したいです。
もし、大城長者だとしても、大城は赤司八幡宮の南や、
大野城とも関わりが出て来そうで、それはそれで興味深い名前です。
情報ありがとうございます。 (^-^)
Commented by lunabura at 2013-03-08 23:12
桜もちさん、すごい調査ですね。
何としても地図に落としたいです。
遺体のバラバラ埋葬も、恐ろしげな話ですが、
大嶽神社(5)で書いた
「ウケモチの神から五穀と蚕が生まれた
ハイヌウェレ神話と日本の神話」
を思い出しました。
縄文土偶がバラバラにされるように、
猪折の霊力などを利用する呪術的なものかもしれないなと。
う~ん。
それでも、やっぱり恐ろしい。
Commented by 桜もち at 2013-03-10 23:09 x
るなさん、こんばんは。

ポリネシア系のタロイモの話はハワイ神話にもありますよね。
作物争奪の犠牲なのか、豊穣儀式の生け贄の話の伝承なのかは不明ですが。
三國志にも生け贄の風習の話がありますし、日本も近世まで人柱の風習がありましたし。天地鎮の儀式は、自然に対する畏怖の強さを反映し、人間に対しては祟りを恐れてますよね。

猪折の埋葬が呪詛に関係するものだとすると、田川市夏吉の若八幡神社が夏吉古墳群エリアの中間地点にあるのは、これも呪詛に関係するのでしょうか…。
Commented by lunabura at 2013-03-10 23:21
桜もちさん、こんばんは。
猪折の埋葬については、何か古い信仰形式がかぶさっているような
感じがして仕方がないですね。
思いがけない伝承です。

夏吉古墳群は訪問しにくいという情報を知っているだけで、(・.・;)
桜もちさんのお話で、え?そうだったの!と驚いています。
確かに、若八幡神社はどうして香春岳から離れているのだろうかと
思ったのを思い出しました。
よく考えると、ここも犠牲になった所だし。
仇を合祀することで封じ込めがあったと思っています。
桜もちさんはどう考えてありますか?
Commented by 桜もち at 2013-03-11 23:53 x
るなさん、こんばんは。

ここの記事の内容とは違う話になり申し訳ないので、以前の『若八幡神社』の記事のほうへコメントし直しますね。
Commented by lunabura at 2013-03-12 10:59
桜もちさん、謝々 (^-^)
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