2009年 11月 09日
伊野天照皇大神宮(5)
一昨日は伊野天照皇大神宮の過去記事をざっと見て、
この神宮の写真を殆ど出していないのにびっくり。
しかも、小さい。
写真がいっぱいなのが『ひもろぎ逍遥』だよね。
UPしなきゃと思いながら就寝して目をつぶると
雅楽の音とともに映像が現れた。
左大臣と右大臣が舞っている。
二人の間には黒い漆塗りの器台がある。
右手の方には女官が一人座っていて、舞を楽しんでいる。
舞人たちの向こうには高貴な方の気配。
左大臣の舞は青海波のような衣装だった。
あれ?
聖洲さんも伊野天照皇大神宮で同じようなものを見たって言って、
絵を見せてくれたことがある。
そういえばそっくりだ。
まさか、同じものを見た?
ネットで映像を探すと、青海波の動画がUPされていた。

映像出典
http://www.youtube.com/watch?v=jgZSp8YcqTQ
雅楽の音も舞姿もそっくり。
この映像は夜だけど、私が見たのは昼間のようすだった。
見えない世界ではこのような舞が舞われているのかな。
* * *
さあ、それでは伊野天照皇大神宮を写真で逍遥しましょう。

駐車場からすぐ、石段を上って一の鳥居をくぐると
そこはもう深山の趣。
木々の香りが五感を満たします。

拝殿が見えて来ました。

緑濃い境内に駒犬の赤い口が彩りを添えています。

拝殿を横から撮りました。
拝殿の奥には頭山満の額があります。

御神木は苔むして、何の木か分からないほど。

拝殿の横の石段を上ると神殿に出ます。

神殿です。

さらに石段を上ると古神殿あとに出ます。
最近はいつも誰かがここで祈る姿が見られるようになりました。

境内脇にある白い碑。
「神功皇后 異国を眺められた由緒ある遠見岳への登山道」
と書いてあります。
30分ほどで、普通のズックで登れます。
神功皇后をよく知らないとき、
どうしてここに皇后という身分の人が来たのか、
どうやって山に登ったんだろうか、
登るたびに不思議な思いをしました。
仲哀天皇も登ったという話も見つけました。
香椎宮時代に、天皇と皇后は共に登ったのでしょうか。
天皇崩御のあと、皇后はここで天照大御神に祈りました。
ここは江戸時代に遷宮したのが分かりましたが、
その時、岩の下から銅鏡が出て来たとか。
今その銅鏡は廻り廻って、宗像にあるそうですが、
今はどうなっているでしょうか。
元宮も分かって来たので、またいつか報告したいと思います。
地図 伊野天照皇大神宮
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「犬鳴 久山 炭 覚應寺」で検索してTOPに来る福岡市文化財のページを見てもらえます?犬鳴久山の炭が藩に収められていた経由が書いてあります。製鉄関連でその組合を鋳物師が管理していたそうです。
ってことは、たたら製鉄が城下近くでなされてたっていうことですよね。それでは砂鉄はどこからかって、考えてしまいます。炭より重いでしょうから、馬ではかわいそうですよね。だとしたら海路しかないし。
風邪は大丈夫ですか?
ざっと読んでみました。
江戸時代ってすごく具体的に明らかになるんですね。(驚)
砂鉄は確か、津屋崎の記録に、犬鳴に運んだという話が載ってなかったかな…。
博多湾の中の沈没した島にも砂鉄の話があったような。
運ぶのは、柳川のドンコ舟タイプが沈みにくかったと記憶しています。
陸上は馬かも知れませんね。
山道で馬が丸太を運ぶのに出くわしましたが、強いですよ。
私もまだ伝承に出会っている段階で整理できていないので、
よく答えられません。
すみまっせん。
藩主の逃げ城でもあったらしい。犬鳴別館。
やっぱり炭や鉄を運んで人里でたたら製鉄はすべきですよね。
こんなとこに閉じ込められて、病んでしまいそう。これは、製鉄の歴史の中でも異色じゃないのかしら?
たたらをやる人って必ず目をやられるって。歴史って辛いことばかりですね。
たたらがいつまであったかは知りませんが、立役者の加藤司書という家老は、江戸の末の人でした。
一応勤皇派の人だから、名前は残っているようですが、犬鳴のこの仕事に関しては、褒められないですね。
世の中が変わったらあんなとこに藩主を押し込めておいてもどうなるもんでもなさそう。多くのたたらの 労働者の恨みもかったでしょうし。
http://fuji.pro.tok2.com/inusetetu.html
誤記が多いので、これ貼っときます。









