2013年 03月 18日
「五」と「八」の謎
「五」と「八」の謎
「五」と「八」について、
若八幡神社(2)のコメントにあった質問の返事をこちらに書きます。
質問はこうです。
Q:ところで、上のコメント中の
『北からは五、南からは八。シンボルはそんな数らしいです。』とは何でしょうか?
何かの民族のシンボルなのでしょうか?
ものすご~く気になってしまって、、、。
すみません、よろしければ教えてくださいませ(^^
A:「五」と「八」の話ですね。
真鍋大覚が、そんな言葉を一行だけ、さらりと書いているんです。
この「五」と「八」については、にゃん友さんの言われるように、
民族のシンボル案も含めてずっと考えているところです。
例えば、伊都県主(あがたぬし)の五十迹手は「いそとて、いとて」で、
「五」がついています。
神夏磯姫も「磯」をうっかり誤変換したら「五十」が出てびっくり。
烏賊津使主(いかつおみ)も「イカ」は「五十日」という字が正しそう。
これらは中東から朝鮮半島経由で渡来した人と考えられないかな
と考え中です。
それに対して、「八」は
「八幡」「八雲なす出雲」「八十物部」(やそ)などに使われます。
八幡はハチマン。ハッティのことだと真鍋大覚は言います。
ハッティの英語読みはヒッタイトです。
昨年、鉄の起源はヒッタイトより遡るという記事が出ていましたね。
大分県の藤重遺跡には縄文の製鉄遺構があると新聞で読みましたが、
ネットで確認すると、縄文の字が消えていた…。
(何か書けない事情があるのかな…。(・.・;)
出雲と八幡はもともと一つだったのが、
憚られている内に互いを忘れてしまったようなニュアンスの話も大覚は書いています。
これに隼人が絡んできます。
これらの話はかなり衝撃で、しかも追及心をそそるのですが、
謎解きをするには私はまだまだ力不足です。
景行天皇も羽白熊鷲も冶金技術が優れた系統だということで、
鉱山を巡る戦いが日本でも起こっていたと考えています。
私はブログで景行天皇という表記をしていますが、
これは、長い名前を覚えて書くのが面倒くさいという理由で、
当時は天皇という言葉はありませんでした。
「五」や「八」の人たちがそれぞれクニを作っていた時代で、
景行天皇もそんな中の一つのクニの王だったと考えています。
ところで世界に目を向けると、人類は銅の後に鉄を手に入れるのですが、
銅の東への伝播に鉄の伝播が追い付いて、
日本へ入ってきた時には同時だったと言われます。
何故なら鉄の需要がとても大きかったからです。
銅の民や鉄の民が中東から東へ向かう時、
中国から朝鮮半島経由が「五」、
そして中国からダイレクトが「八」。
こうした渡来ルートが「五」と「八」というシンボルで解けないかな、
と考えている最中です。
今のところこんな理解です。
答えになりましたでしょうか。 (^-^)
元の記事はコチラです。
若八幡神社(2) 神夏磯姫と香春岳と新羅
http://lunabura.exblog.jp/16643803/
ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村
『五』はそれだったんですね!『八』は宇佐託宣集にあるという『辛国の城に始めて八流の幡を天降して、吾は日本の神となれり。』に関係あるのかなぁとは思ってました(しかも、鍛冶の翁が出てくる!)が、まさか『五』まで!宇佐に関わる祭祀氏族に辛嶋氏がいたらしいのですが、この辛嶋氏は五十猛命を祖神としているそうです。(私が当初迷った理由もそこにあったんです!)
しかも!今、宿題になっている『金星』とも共通性があると思います。(関係が似てるんです。)
ルートに関しては、中国迄はpieceは揃ったんですが…(汗)
それにまだ最大の謎が…???状態です(涙)
つい、興奮してしまい…失礼しました。
そうだったんですね、数字は民族をあらわしているんですね!
点と点だったものが繋がって、スーッと直線になりモヤモヤが消えました(笑)
『何か気になる・わかんないけど好き』なだけで知識はないので、お返しするものが何も無いのですが、ずっと応援して拝見させていただきます(^^)
桜もちさんも補足ありがとうございます。
感謝します!
宇佐の事を考えると、訳が分からなくなります。
結界張られてる?
宇佐の元宮が大分八幡ですから、さらに複雑。
五十猛命は荒船神社でネットワークがあると聞いて、
探査する途中で、もう二年程経ちました。
これも楽しみですが、ますます混乱するかも。
どうやら、「五」も「八」も福岡の中で考えると上手く行きそうです。
(+_+)
繋がりましたか?
「五」と「八」の話は腑に落ちる感じですか?
神功皇后よりさらに古い世界に入っていくことになるのでしょうが、
それでも、神功皇后の三年間が基礎になるのが今はよく分かります。
一緒に古代の筑紫と豊を逍遥しましょう。 (^-^)
数字つながりで自分も便乗質問させてください。
自分は「1」と「10」が気になってます。
たとえば、「いよ」と「とよ」や
「やまいち」と「やまと」
一代目と十代目が「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれている
など一と十がリンクしてるというかイコールみたいな関係がしてる
きがして、ルナさんて気にはどう思われますか?
一代目と十代目が同じ名前なんですか ?
どこか、簡単にリストを挙げているサイトがないかな~。
「いよ」「とよ」あたりは、
先輩学者さんたちが好き勝手に書き換えたりして、
もう手が付けられません。
原典から調べないと、どうしようもないですよね。(涙)
「1」と「10」
面白そうですね。
よかったら詳しく教えてください。(^-^))
るなさん的には、全く守備範囲外でした。
宇佐については…私も違和感を感じます。特に、英彦山の縁起(鎮西彦山縁起と彦山流記)をみると、宗像は重視しているのに、宇佐はドロボー扱い(古代は『日子山』で宇佐は後裔の筈なのに…)なので。
『大分』は『太傅』の転化だと勝手に思ってました。ショウケ越えたら宇美で、米ノ山越えたら阿志岐神護石と『太宰』府なので、何か重要機関(太傅の役所)でもあったのかなと。
それにしても最近『妄想癖』が酷くなりました(笑)
阿志岐と鹿毛馬はどうみても、選別施設にしか見えません。
わざわざ谷に水門を作るのは、軍事施設ではないと。
私は、葦を燃やしたあとのスズ鉄の選別の施設と考えています。
材料は目の前に沢山あるのですから。
まだ、どちらにも行っていないのですが…。
大分と宇佐は考えようとすると拒否感が出て困ります。
鹿毛馬は『鉄』ですよね!(排水口を考えると、選別方法は沈砂桝の複合型で『恵蘇八幡の水時計』のイメージ)。
阿志岐も水門の排水口は暗渠式なのでしょうか?
御所ヶ谷は、追加増築の形跡もあるそうなので複合施設の気がします。こちらは排水口で考えると『銅』と『金』も可能性あるかと思っています。(鯛生金山の砂金探しのイメージです!)
『大分』に関係あるのですが…太宰府近辺(半径15km位)に『太保』とつく地名はありますか?
すごい。
阿志岐については、ちょっと分からないです。
マーサが見学してるけど、ブログ見てるかな。
福津市の渡半島の金山たたら遺跡をレポートしています。
これは江戸時代のもので、成熟した遺跡でないかと想像しています。
金山たたら遺跡
http://lunabura.exblog.jp/16450288/
連なった四つの池に排水口がついているんです。
「太保」はないと思いますが、「大保」なら小郡市にあります。
西鉄駅名にもついていて、近くに飛鳥という地名があります。
サイドバー→地名→「九州の飛鳥」
大分とどう関わるのですか?
まさに『沈砂池』ですね!知人に『水時計』の写真を初めて見せてもらった際に『何で!神社に浄水槽があるん?』と言って馬鹿にされたのです…。
でも、このシステムの原形が『浄水用』ではなく『採砂用』だったとしたら…。この方法だと丘陵地の傾斜と水量(排水口の大小と形態で水量が推定できるかと…)で十分『採取選別』が可能だと思うのですが…。
御所ヶ谷については『排水口』の位置が高すぎるのと、これを雨水対策と考えるには(一極集中だと石積が大雨等で決壊すると思うのですが…)無理があると思ったからです。
排水口の位置一つでも考えて設計されている訳ですね。
なるほど。
糸島の雷山神籠石のそれは結構高い位置にあったような。
大保は小郡ですが、確か近くに御原郡衙がありましたよ。
15キロ当たりでしたが、その距離は何ですか?
なんだか、わくわくです。
もう、本当に驚いてます!朝イチで地図を確認しましたよ(笑)。
以前から大分が『太傅』なら、きっと『太保』もあるんだろうと思っていたのですが…何せ筑紫側の土地勘がない(甘木朝倉方面は少しわかるのですが)ので調べてもいなかったんです。
距離は全くの推測です!
太宰府政庁から大分廃寺跡付近の直線距離が15km位なので、多分『太保』も同じかもっていう短絡的思考です(笑)。
太宰府政庁が中心だと思うのですが…。
だとすると1つ疑問があるのです。
太宰府に関しては全くの無知なのですが、設立時期は白村江の後だった筈ですよね、確か。
何故『太師』府ではなく、『太宰府』なのか。
例えば、現政府が新規に役所を制定するのに明治政府ではなく江戸幕府のシステムを参考にしたようなものだと思うのですが…?
詳しい方々の意見を拝聴してみたいです!
むむ。
すごくイメージしやすいです。
太宰府に関する本について、くるま座さんは100冊以上読んだけど、孫引がほとんどで、自分で研究したものに出会えなかったと言ってました。
(本を書いた方、失礼しました)
太宰府の研究をしたある方が出版しようとして弾圧された話を聞いています。
なんとか、その方の原稿に出会えないかと思っていますが。
眞鍋大覺の家系が太宰府の暦官だったので、タグの真鍋大覚を拾い読みしていただければ、少しですが書いています。
(桜もちさんの疑問に直接の答えになっていないのですが)
成立時期は相当古いのでは?
個人的な趣味で宇佐神宮を調べていたところ、こちらのブログにたどり着きました。
とても素敵な文章と内容で、初めて知ることや、気づかされることが多く、楽しく読ませてもらっています。
ルナさんのおかげで、神功皇后のファンになりそうです。
私は、神功皇后や神社を追って行く中で、壱岐や対馬の神社は外せないと考えています。
もう、既に逍遥されているかもしれませんが、先日(このブログの影響もあり)、壱岐の聖母宮を逍遥してきました。そこの由緒には「土器崎より3270艘の軍船で壱岐向かった」とあります。後世の創作かもしれませんが、志式神社の48艘から、かなり増えていて驚きました。また、神功皇后や五十猛は、対馬の神社に多くの足跡があります。
ええ?宇佐神宮調べているのですか?
う~ん。よかったら教えてくださいね。
壱岐や対馬には神功皇后の伝承が多いと聞いています。
(壱岐には二度行ったのですが、ずっと昔のこと)
3270艘とはすごい数ですね。
48艘というのは、新造船だと思っています。
宇佐神宮の近くにワマの浜があるんですよね。
水軍は五十迹手や水沼族、松浦族、遠賀水軍、住吉族などなど、
自前の船を出しているはずですから、
結構な数にはなると思っています。
また、教えてくださいね。 (^-^)
誰か、長崎のガイドブック書いてくれたらいいのにな…。
真鍋氏のお話の一部を拝読させて頂きました。
それでもまだ、200年近くのタイムラグが…(謎)
暦合せの頃は現在地にあったのでしょうか。
やっぱり土地勘が無いと『王府』も、当初の場所の特定も難しいです。
『神護石』については内部の詳細(水路・施設・出土物等)を比較研究されている方、ご存知ないですか?(←他力本願!)
でも!今一番の関心は真鍋氏のお話の中に(私の探している答えのヒントを見つけました!)あるので、イチから改めて勉強させて頂きます!
200年のタイムラグって、5世紀ごろということですか?
「王府」って、王の宮殿がある所?
中国史には倭国の王は筑紫城に住んでいたらしきことが書いてあった(うろおぼえ)ので、
筑紫城を探そうと、思いながら行けずじまいです。
神籠石、ほんと誰か研究していないのかな~。
専門書が一冊ぐらい出てもよさそうなのに。
ところで、今日のNHKの5300年前のアイスマンの話。
持っていた銅の斧。純度99,7%だったって。
すごい技術があったんですね。
5300年前といえば…メソポタミアでも銅合金の発明前?マルタ島の遺跡(名前忘れました…グルグル模様の遺跡)の頃?
『太宰府』の妄想の詳細、長くなるので明日にでも!
ところで、旧夜須町の砥上岳付近は『筑紫』の文化圏ですか?
筑前と筑後に分けると、筑前なのかな…?
筑紫は遠賀川流域まで広がっています。
筑豊とは「筑紫と豊」だそうです。
ちなみに、竹原古墳にいた人に「ここはどこですか」と尋ねたら、
筑前と言っていたような。
(だんだん記憶が曖昧に…。自分のブログを読み直さなきゃ)
旧夜須町は『太宰府』と関連付けてもおかしくはない土地なのか。をお尋ねしたつもりだったのです…。
やっぱり文章苦手です(涙)…因に私、遠賀川流域居住者です。
旧夜須町ですね。日本書紀に層増岐野と出て来る所ですが、
「安」とも言ったところです。
『日本書紀』がらみでは、砥上神社の南西部に松峡神社(まつお)があり、そこは神功皇后が香椎宮から松峡宮に遷ったとあります。
サイドバーから松峡神社へ。
まだ記事にしていませんが、真鍋大覚は
そこで各国の人たちが自分たちの国の歌を歌って披露していたという
話があって、それが「ヤス」の語源だった話が載っていたような…。
きちんと調べる暇がなくて、うろ覚えでごめんなさい。
太宰府と無理につなげるなら、大宰府で入国手続きが済んだ異邦人たちが集ったという事かな…。
場所が特定できてません。
多数の情報、ありがとうございます!
真鍋氏のお話がとても気になります。
実は砥上岳付近を『王府(宮)』の候補地の1つではないかと仮説しているのです。太宰府・大分・大保の三方向から均等距離だからという単純な理由なのですが…(恥)
それにしても3つの距離が離れすぎですよね(笑)
全くの偶然の一致か、太宰府が現在地に移転した時期は『王朝末期』だったのか…。
王の権威が強ければ王宮周辺に役所があると思うのですが…。(逆説的にいえば移転前は王宮とセットである筈?)
あと、年代に疑問を感じる理由の1つは…
それが『謎』とする理由の1つです。
少し待っててください。
どこか似通った歴史をほうふつとさせますね。