2013年 04月 08日
ちょっと
ちょっとパニックを起こしています。
昨日は友人に久しぶりに会ったら、
「許斐山が見えたのは糸島の白髭神社だったもんね。」
「あ、そう?覚えてたの?」
「ここが何処と其処と繋がってるとか言ってたよ。」
「あ、そう?」
私は何も覚えていない。
さらに友人
「光岡神社は宗像大社の元宮というからね。」
「え?そうなの?その光岡神社の元宮が許斐山らしいよ。」
光岡神社は文字通り岡が光ったらしい。
光の写真が取れる事でスピ系の人に人気。
まさか、こうして
許斐山―光岡神社―宗像大社と繋がる?
三女神が神威を顕したという神興神社も近い。
ついでに宮地嶽神社の在自山も、江戸時代の人は三女神だと言っている。
楯崎神社は何度も書くけど大己貴と宗像姫が力を合わせて戦ったところ。
もっと、ついでを言うと、宗像大社は「大国主」だという人が何人かいる。
探究して行くとどうしてもそのような部分が見えて来る。
そんでもって、まだブログには書いていないけど、
神武天皇社がそのエリアにある。
英彦山の縁起を読んでからこの福津市~宗像市のエリアを見ると、
大己貴と三女神が濃厚な分布をしている。
地図に書くと分かりやすいでしょうけど、只今混乱中。
そして、志式神社の三良天神の火酢芹神を訳している途中だけど、
もう一柱の祭神火明神とセットで英彦山の高住神社に祀られているという。
タカスミ
鷹のつながりで、久留米市の高樹神社、星野村。
そこにある御良神社は、御霊神社の好字だという説を発見。
そう、この志式神社の三良天神も、三霊天神だった可能性がある。
星野村のハムヤ舞いの発祥は大和町の鷹尾神社の可能性が大きい。
やはり鷹。
ただし、ここの人たちは神功皇后ファン。
高良別宮として格別だったらしい。
そんなこんなで、英彦山を中心にバラバラなものが繋がり始めて、
パニック。
今日は余りに天気がいいから許斐山に行ってみようと思ったけど、
結局行かずじまい。
ネットで見ると、熊野神社に三女神の名前が残るが、
頂上はスサノヲらしい。大己貴は深層にあるのだろう。
まだまだ、つながる。
オオガ様 - 大己貴神社 - こうやの宮の住所は太神(七支刀)
という事で、分かりにくい内容となりました。
でも、忘れるから、メモしておきます。
地図 許斐山 英彦山 星野村

志式神社 奈多の浜
カテゴリはどこに入れておこう。
やはり志式神社かな…。
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国譲り前、大国主の勢力は筑紫も支配していたはずで、直接には「建御名方(宗像)神」が芦原中国(那珂国=筑紫)全体を支配していた。これを建御雷神が追い出して、宗像神は「周防(スワ)海」(一般には長野の諏訪湖)で降伏、以降「宗像の地」にこもることを条件に許されたのではないでしょうか。
筑紫の海から周防海まで逃げるのはリーズナブルですが、「科野国の州羽の海」では無理があるのでは。従って、るなさんの「宗像」と「大国主の国譲り」との深い関係があるとの直観は当っていると思います。
「志賀のささなみ」とか「淡海」とか、筑紫で詠まれたとしても
何の無理もない歌が数々現れて、
古代筑紫の話が拡大されているのではと思うようになりました。
周防海を視野に入れると、確かにスムーズです。
宗像の陸化がけっこう遅いので、古代史の話をすると必ず
「ところで、宗像族はどこにいたのか。」という言葉が聞かれます。
ありがとうございます。
愛読者さんの話を手がかりに、もう少し深く掘り下げてみます。
混乱したまま書いて良かったです。
当時筑紫から「御鷹」が筑後の日下部氏に先導され、併せて「30人の鷹養人・犬25頭・20人の鷹持ち(当然鷹も20羽以上)」が税として貢がれたというものです。
このような莫大な鷹の献上は筑紫からしかありません。
そして、「筑後の日下部氏」とは、高良大社官長職の日下部氏で、高良大社御神期大祭の御神幸には羽の付いた冠を被った「鷹鳶」の行列が見られ、筑後久留米市草野町には「隼鷹(はいたか)天神」もあります。
「御鷹・御犬・鷹持」等の尊称から、鷹狩は高良玉垂命=九州王朝の尊い行事だったと思われます(もちろん神功皇后とも関係)。
(「正税」とあるから天平10年に大和朝廷に召し上げられたことになる!!)
税から鷹の話が出て来るとは。
しかも、日下部氏なんですね。
私は、高良大社の勅使祭の、その写真を撮っているので、
愛読者さんのコメントと、私の写真でコラボの記事を書きましょう。
とても重要な位置にありましたよ。 (^-^)








