2013年 05月 01日
小山田斎宮(3)古宮を捜して
小山田斎宮(3)
古宮を捜して
さて、国宝級の馬具が出土した船原古墳から歩いて七分。
山の方に向かって民家を抜けていくと小山田斎宮があります。
正式名称は「斎宮」(いつきのみや)です。
『日本書紀』に書かれた「小山田邑の斎宮」の現場ではないかと探しに来て、
山田の斎宮(久山町)と比較検討しながら、
貝原益軒の説に疑問を持ったりして調べて行くうちに、
皇石神社の上の山で偶然出会った方に、
香椎宮の木下元宮司の揮毫による「小山田斎宮」の石碑があると聞いて、
推論は確信となりました。
それでも、まだまだ全貌が知りたかった。
山田の斎宮(久山町)の方は香椎宮から避難した皇居だ。
それをきちんと説明するような証拠はないか。
そうすると、私の仮説を支えるように
山田の斎宮には皇居の存在を示す地名の数々がある事をコメントで教えられ、
今では二つの斎宮のそれぞれの特質を描き出せる段階に来ています。
今回は『小野村史』に書かれている古宮の存在を確かめに行きました。
かつては地名も神名もよく分からなかったので理解出来ない部分が残っていたのです。
神功皇后の伝承全体が見通せるようになった今、
改めて読み返すと、ある程度理解が進んでいました。
それでは、新緑の季節の小山田斎宮へ。




さて、今回ターゲットとする『小野村史』の該当部分です。
社の西南二町余り(約200m)の所に聖母屋敷という所があり、古宮の跡と言う。畑にすれば作物は枯れ、祟り有り、イバラが茂り、長さ二十五間、横十五間ばかり(約45m×27m程度)の所に三間四面の大石がある。
この石の上に鶏が上がれば足が悪くなり、人が触れば災いを受ける。延享年間(1744~48)に溜池を掘って泥土を取り上げたので、この石は地中に入って今は見えない。
この部分についてグーグルアースで調べてみました。

中央の上部に小山田斎宮があり、200mほど南西の所に記述通りの池がありました。
その右に長方形の敷地が見えます。これを左下のスケールで測るとほぼ45×25m。
村史に書かれている古宮とほぼ同じサイズです。
右の方には50×50mの正方形と長方形の敷地が二つ並んでいます。
これもちょっと気になります。
『小野村史』にはもう一か所記述がありました。
「古宮地を聖母屋敷と称し、本社の西南、小川を隔てて谷山との境の丘の上にある。
今も小祠が五個ある。この霊地を汚せば必ず祟りがあるという。いにしえは香椎と等しい宮所だったが、兵火にかかって焼失して、文禄3年、今の社地にお遷しした。

小山田斎宮の右手に果樹園の中の道がありました。
そして森の中に入ると、記述通りの小川がありました。
そこを渡ると、

なだらかな斜面に美しい林がありました。
個人の山なので、これ以上の写真は差し控えますが、
ここに立った感じでは長方形の敷地というのは分かりませんでした。
右手に少し小高い所があって、
家が一軒ほど建てられるようなフラットな土地がありました。
古い木が伐採されてから長年経ったようすでした。
観察すると、そこは遥か昔、丘の上を誰かが削ってフラットにして何かに利用し、
その後忘れ去られて、木々が大きく育ったあと、
次の時代に伐採されて、更に長年経ったという感じでした。
そこに立つと日当たりが良く、目の前は急な斜面で、その先に池が見えました。
祠は見当たりませんでした。
もし、ここが古宮跡だとすると、周囲は全く人気(ひとけ)のない所なので、
ここに神功皇后や側近たちを案内した豪族は
どうしてこのような山の中に連れて来たのだろうかと思われるような所でした。
古代は違っていたんだろうなあ。
村史には「御神宝に神面をはじめ、斎宮当代の古祭器、古器物など十余種あった」と
書かれていたので、実年代の推測の手がかりになるかと、歴史資料館の方に尋ねたら、
神社などの宝物は調査の対象にしていないとのことでした。

こちらは広い二つの敷地の入口近くのようすです。
「いにしえには香椎宮と等しい宮所だったが、兵火にかかった」とあるので、
二つの長方形の敷地にはかつて壮大な神社があったのではないかと思われました。
藤の花の左は普通の庭の植栽が残されたような風情です。
人知れず咲く藤の花。
写真を撮っていたら、風が吹いて揺れました。
地図 小山田斎宮
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ゾクっとしました。
『福岡県神社誌』によると、この古い地名は「大字小山田字大裏」となっているのです。
読み方は分かりませんが、斎宮を中心とした地名ではないかと思っています。
古衙としたら、船原古墳の金銅製の馬具も納得となりますね。
「藤大臣」はいったいどうなっているのか訳が分かりません。
あちこちで出て来ますよね。
「聖母屋敷」の異称、また「内裏」の別称・・・気になって起きてしまいました。そも、誰を祀った場所なんだろ・・・尼子の郎女の母ちゃん、つまり徳善の嫁さんのひとりだったりして・・・それとも葛子の母ちゃん・・・???
福間に、住宅開発地から移設された墓石があります。曰く「禁裏屋敷の貴人の墓」と。近傍にお住まいの、大分神社権禰宜の妹さんから教えを頂戴しました。この人飯塚王家の姫か!? 福岡は濃い!!
禁裏・内裏・復活した旧称のヒマキなど、皇統・政治中枢の、むしろ周辺事情として地名が残り得たように感じられます。
別件ですが、内浦は、内裏に承認された交易地、それが足利幕府時代であれば、倭寇の根拠地のひとつであっても、おかしくないと思えます。
確認すると「大字小山田字大裏」でした。
この「大裏」を「だいり」と読むのか「おおうら」と読むのか不明のままです。
「だいり」と読みたくなるのですが。
そうすると、「内裏」となりますね。
「聖母屋敷」は神功皇后です。
「しょうも」が一般的な読み方です。
福間は地下の正倉院とも言われる宮地嶽古墳などがあるのですから、ここもまた神社と共にかなりの豪族の存在が考えられ、
九州王朝の紋とともに、竹内家など、駒はあるのに、実態のイメージが出来上がりません。
ところで、飯塚王家って、王塚古墳の関係ですか?
大も内も「ダイ」の当て字で良いと思っています。飯塚、鹿毛馬神護石の裏道に大城(ダイギ)の地名があります。
古語の「アフ」と現代語の「おおきい」は別系かもしれません。
飯塚には、大宰府・大保府と並ぶ政府機能、大傅府があった故に大分(ダイブ)地名が残ったという説に乗っかりたいと思います。大分八幡周辺か、さほど離れていない場所から、皇太子輔弼の役所が発掘されるだろうと期待しています。
飯塚の豪族は大分宮を維持・管理せよと命じられた・・・のかもしれません。王とは本来、皇帝に承認された地方行政官を意味しますので、飯塚王家と表現しました。また古墳の主も豪族で、大傅府長官などではありえないと思っていますが、豪族が長官を務めた可能性は大きいとも思います。
あの方は飯塚王家の姫、理由は見た目、です。









