2013年 05月 03日
八幡宮 船原古墳のすぐ近くの宮・磐井の乱を見たのか
八幡宮
古賀市谷山
船原古墳のすぐ近くの宮
磐井の乱を見たのか
さて、船原古墳のすぐ近くに八幡宮があります。
ずっと前に訪れていたのですが、あまり特徴がなくて掲載するチャンスがありませんでした。


しかも四枚しか撮影していませんでした。
八幡宮の意味もよく分からず、歴史の興味もない頃だったのですね。
写真とはその時の意識まで写し出すので、こわいものでもあります。

ケヤキ 800歳。

クスノキ 800歳。
800歳のクスノキはこれまで出会った2000歳に比べたら、若々しいですね。
当時考えたのは、
香椎宮から向かうと小山田邑の斎宮のすぐ手前にあるので、
警固の者たちが、ここに駐留したのかなとか思ったりはしたのですが。
ここは船原古墳から見えるような場所です。
古墳の被葬者の氏神様の可能性もあるわけですね。
ただ、明治時代には「一村一神社運動」というものがあったらしく、
歴史を調べないと何とも言えません。
幸いに『小野村史』に載っているので、訳しながら書き写します。
村社 八幡宮 大字谷山字屋敷
由緒
筑前国続風土記拾遺にいわく、
村の乾(いぬい・北西)の方にあり、産神である。
祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫である。
祭礼は9月28日。木梨氏が奉仕しているという。
社説に、当社は昔は字若宮に鎮座していた。
天文年中に今の古屋敷に御遷座したという。
当郡の中で崇敬された御社であるという。
文化13年、郡中より本朝三部本書ならびに異国退治の大絵馬など寄附奉納あって、今も掲げている。
社地は広く平らで、5~600年の巨木のクスノキ、ケヤキが鬱蒼として一見幽厳な風教を感ずる。
御祭神は八幡神の三柱・神功皇后と応神天皇と玉依姫でした。
天文年中、1532年~1555年の間に字若宮から古屋敷に遷座したということです。
若宮を調べるのは簡単ではないでしょうけど、
現地が古屋敷という字名というのが気になります。
ここは玄海灘から船で遡って来て、山の手前で荷を下ろすような位置です。
豪族の屋敷があって、積み荷の管理もしていた可能性はありますよね。
船原古墳の被葬者にとって、聖地というより小湊だったのかも知れません。
普通、古墳の造営地というのは、集落より高い所を選ぶのかな。
そうすると集落はもっと下流域に求めるのがよいのかも知れませんね。
何よりも、興味深いのはこの谷山川を下って行くと、直接、鹿部田淵遺跡に辿り着くことです。
糟屋の屯倉の候補地の一つです。
もし葛子が命乞いした屯倉でなかったとしても、
そこは仲哀天皇の時代には軍船の訓練地だったのですから、
相当な武器が格納されていたと思われます。
時代はどうなってるんだろう。
527 磐井の乱
603 久米皇子死去
6世紀末~7世紀初め 船山古墳の馬具
おお、被葬者は磐井の乱に関わったかも!
(敵かな?味方かな?)
俄然、面白くなったぞ。
これは目の前の川を下った所の古代のようすです。

鹿部田淵遺跡
http://lunabura.exblog.jp/16495118/
に掲載しています。
ブログで紹介しているところは
皇石神社
永浦古墳の鎧兜(⇒古賀市立歴史資料館)
新宮町の神功皇后伝説 です。
地図 八幡宮 古賀市谷山
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