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「とひ」と「かひ」(1)・吉野ヶ里は「かひ」族


「とひ」と「かひ」(1)

吉野ヶ里は「かひ」族

久し振りに古代祭祀線のお話です。
各地から流入した渡来人たちが日本で融合していくなかで、
それぞれのルーツを辿るのに、神社の祭神は大きな指標になりますが、
祭祀線もまた指標になると思っています。

元旦をいつにする?
現在の日本は冬至から一週間ほどして、ですかね。
太陽や月のイベントはあまり関係ないみたい。
旧暦だったら、朔月つまり新月が目安だから、月の観測がメインですね。

インドネシア辺りでは今でも各民族ごとに暦が違うので、
何十というカレンダーがあるとラジオで聞いたけど、
古代日本もそんな感じだろうなと思っています。

で、いつもお世話になっている真鍋大覚の本に、
「かひ」と「とひ」の二つの氏族がいたということが書かれていたので、
今回はそれで吉野ヶ里遺跡を調べたいと思います。
(『儺の国の星・拾遺』p245)

昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元旦とする氏族であり、「とひ」とは冬至を元旦とする氏族であった。

春秋の世は朔旦冬至をもって暦を正し、この儀式は日本においても明治3(1870)年まで宮中で受け継がれてきた。しかし望旦夏至は、舒明帝(631)あたりまでは何とか維持されていたものとみえるが、敏達帝12(583)年に百済の暦書を太宰府が編輯する頃から、万邦世界に普遍な暦法も必要になってくるところから、次第に両方併用の時代に移り変わってきた。
「かひ」と「とひ」。
「かひ」族は夏至が元旦となるので、東の空を観察して、
一番北から朝日が昇る日からカレンダーが始まります。蒸し暑い季節ですね。

「とひ」族は冬至が元旦になるので、一番南から朝日が昇る日がカレンダーの始まりとなります。
真冬の観測になります。

日本では「朔旦冬至」が元旦だったということなので、
冬至の寒い季節、新月が昇る日を観測していたことになります。
新月の月の出と日の出は同じ時間ごろなので、
夜明け前、雪が降るような季節に三日月より細い月が昇るのですから、
凍りつくような光景が目に浮かびます。

しかし、舒明天皇のころまでは「望旦夏至」が維持されていたということです。
「望」は満月、「旦」は朝だから、夏至の頃の満月の朝が一年の始まりになります。
一晩中夜空を旅する満月が西に沈むとき、
振り返ると東から朝日が昇るのを観測したということになりますね。
梅雨どきだから、なかなか観測しづらかったと思います。

満月と朝日の間に立つ、何とも美しき宇宙の計らいの時。
私も二度ほどその時を経験したのですが、心が壮大になった記憶があります。

ひんがしの 野にかぎろいの 立つ見えて かえり見すれば 月傾きぬ
(東の野に曙の光が薄紫の光をすっと立てた。
振り返ると、一晩中煌々と照らしていた満月が沈もうとしている。)

この歌はそんな満月の入りと日の出の時をうたったものなんですね。

あれ、そういえば今夜は満月?
日の出は5:12
月の入りは5:02
だね。

で、今日調べたいのは吉野ヶ里遺跡。

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このロケットを斜めにしたような超現代的なデザインの外周を見ていると、前方後円墳を思い出してしまう。

ロケットの先端が祭祀方向かと思いきや、こちらは「冬至日没」
ロケットの足元の方が「夏至の日の出」

(この赤いラインが正しいかどうかは、あるプラネタリウムに行って確認済み。)

吉野ヶ里族は夏至の日の出を観測しているので、「かひ」族としていいのかな。

さて、真鍋大覚の続き。
かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曽我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。皇極帝4(645)年はまさに暦法の賛否を巡って中大兄皇子(619~672)の激烈な論争と対決が背景にあったことを心がけなければならない。

「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名抄には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが今はない。所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。

月に女人を事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。


c0213541_21321536.jpg

これは以前に作った地図。

c0222861_035681.jpg

これも、真鍋伝承を描いたもの。
『儺の国の星』
p155 
早良戸栗(へぐり)は、かつての平群氏の故郷であった。
p196
大和の笠置の山々の名は、筑紫の葛城から神功皇后(201~269)の御宇に遷したものと伝えられる。葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる。

葛城氏竈門山系と水縄山系を領有して南方貿易を独占していたのに対し、平群氏背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していました。せふりの語源は「へぐり」に在ったと語られますが、日繰(ひぐり)すなわち天文暦法の家系を示す古語であります。

平群氏は「かひ」族。曽我氏は「とひ族」
吉野ヶ里は「かひ」族。そして吉野ヶ里遺跡は平群の南にある。

そういえば、糸島の宇美八幡宮は平群のツクの末裔だったな…。
小倉北区の篠崎八幡神社は葛城襲津彦の末裔だった。
どっちも竹内宿禰の子。

何かつながらないかな~。

満月の夜は妄想もぼんやり。




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by lunabura | 2013-05-25 21:11 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(0)
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