ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

綾羅木郷遺跡(1)若宮古墳は鬼が城山を見ている?


綾羅木郷遺跡(1)

若宮古墳は鬼が城山を見ている?


c0222861_22175945.jpg

この古墳の前に立った時の強烈な印象を忘れないうちに書き留めておきましょう。
下関市立考古博物館で見学したあと立ち寄りました。
もしかしたら、うっかりと見過ごして帰ったかもしれなかった。(冷汗)

いかにも清浄な地に営まれた前方後円墳。
環境の素晴らしさに興奮しながら正面に立つと、思いがけない景色が展開しました。

c0222861_22181643.jpg

古墳の向こう側に山がある!
この古墳はあの山から気脈を取っている。

古墳を建造する時、中心線は山や祖先の古墳など、何かを基準にして決めていると思われますが、
これほど分かりやすいものを初めて見ました。


この古墳は「若宮古墳」といいます。
c0222861_22255710.jpg
この説明板を見ると、中心線は真北を向いていず、
やや東にブレています。
このブレは北でなく山の頂上を
意識したからではないだろうか…。















次は説明板の記事です。

若宮古墳 年代5世紀中頃

古墳の長さ39.7m
前方部の高さ2.3m、先端の幅15.1m
後円部の高さ 4.0m直径21.0m
周濠の幅4.3m

この古墳は、綾羅木郷遺跡北西隅近くに位置を占める南西向きの前方後円墳です。
墳丘は、後円部が3段、前方部が2段に築かれています。

墳丘は表面は葺石で覆われ、墳頂や段には円筒埴輪や壺形埴輪が並べられていました。
後円部中央には白色の粘土で密封された組合式箱式石棺が納められ、南には墓道の痕跡がありました。

この石棺の大きさは長さ2.85m、幅1.11m内外。中には2体以上の人骨が埋葬され、勾玉・管玉などの装身具、鉄製の刀や剣なとの武器、斧などの工具が副葬されていました。
墳丘の裾には、幅4.3mの濠がめぐらされていました。

この古墳は昭和33年から5回にわたる発掘調査の結果に基づき、昭和60年度に大きく復原し、斜面に芝を植え、周濠には砂利を敷いて整備しました。埴輪列の復元については、資料が少ないため今の調査をまつことにしました。

文化庁・山口県・下関市 昭和62年3月
古墳の周りの白い囲いがそのまま周濠だったようです。
水をたたえていたとしたら、さぞかし美しい古墳だったことでしょう。
やや小振りのサイズなので前方後円墳の形状を把握しやすくて魅力的です。

c0222861_2226363.jpg


これが「下関市立考古博物館」の中にあった復元レプリカ。
美しいな。
石棺の大きさは「長さ2.85m、幅1.11m」で、2体以上が埋葬されていたので、
ぎゅうぎゅう詰めだったみたいです。

(ぎゅうぎゅう詰めで思い出すのは久留米市の祇園山古墳。
男女の遺体が埋葬されていたはずなのに、報告書から消えているという謎の古墳。
しかも石棺は墳丘の上にあった。
くじらさんが、普通は石棺は墳丘の下にあるのではと言われた。
頂上部にある石棺は二次使用ではないか。
そんな事をこの数日思い出していたが、
この若宮古墳を見ていると、やはり祇園山古墳は変だと分かる)

おっと、話が逸れて来た。
もとい。

この若宮古墳がある古墳公園の中には他にも古墳や弥生住居などがあって、
見学していると、移動して復元したものもあったので、
もしかしたら、若宮古墳も移動したのかも知れない。
(そうすると、私の仮説はもろくも崩れ去る。)

そんな疑問が湧いたので、博物館に戻って確認しました。
学芸員が不在で分からないとのことでしたが、何としても確認したかったので
無理を言って、分かったら教えてくださいとお願いして博物館を後にしました。

ラーメン屋さんに寄った時、電話がなりました。
「若宮古墳は発掘当時から全く移動していません。そこにあったものです。」
(わざわざ連絡していただいてありがとうございます。)

この古墳は全く移動していませんでした。

c0222861_2331121.jpg

地図を見てみると、鬼が城山と竜王山のピークが見えているようだけど。
これは地元の人にしか分からない。
(Massyさん、まだ訪問してくれてるかな)

私の頭の中はまたぐるぐると廻りはじめました。
この古墳が5世紀半ばだって?
百済の前方後円墳は5世紀後半から6世紀前半だったよ。
周防灘沿岸の人たちも関連していると書いていたはず。

それに、豊浦宮の近くじゃないの。

(つづく)

地図 下関市立考古博物館

山口県下関市大字綾羅木字岡454
083-254-3061








いつも応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2013-05-30 22:33 | 響灘の遺跡めぐり | Trackback | Comments(10)
トラックバックURL : https://lunabura.exblog.jp/tb/20295842
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented at 2013-06-01 19:41 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2013-06-01 21:53
こちらこそ、わざわざおいでいただきありがとうございます。
大変大事なお話、重く受け止めています。
一番よい形になるように祈っています。
古墳の被葬者たちもまた、神社を守った人たちのはずなので、
切っても切り離せないものと思っています。
これからもよろしくお願いします。
Commented by のら at 2013-06-01 21:54 x
るなさん、お久しぶりのこんばんはです(>_<)
綾羅木遺跡ですか。気にはなっていても未だ行った事ないので面白かったです。
面白かったのでスマホのマップや検索で遊んでました(爆)
それぞれのお山付近には沢山の伝承があったりして面白かったです。

竜王山頂上には竜王神社上宮が、麓?には中宮や下宮があったり、しかも神功皇后や仲哀天皇の乳母の伝承が伝わってるのには驚きでした。ホントにるなさんと皇后は縁が深そうですね(>_<)
今、私はマップで佐波川流域を眺めていますが地名で伝承を検索したりするのにハマってます。仮想旅行?
Commented by lunabura at 2013-06-02 20:14
のらさん、こんばんは。
昨日は佐波での神夏磯媛の言葉の話をしたら受けました (^-^)
(福岡で無くて良かったという例の話です)
綾羅木郷遺跡から東にずらっと古墳があって、ウォーキングマップが出ていました。
古代好きにはたまりませんね。
>神功皇后や仲哀天皇の乳母の伝承
って何を検索したら出て来ますか?

マップは楽しいですよね。
私も、出かける時にはオリジナルマップを作って出掛けるようにしています。
でも、古墳とか神社とかあまりなくて作るのが大変。
Commented by のら at 2013-06-03 23:04 x
るなさん、こんばんは(>_<)
神夏磯姫の例のお話ですね♪う、受けましたか(^_^)
綾羅木郷遺跡から東に古墳ですか?今度確認してみますね。ドキドキ♪
>神功皇后や仲哀天皇の乳母の伝承
『下関 竜王神社伝承』でHITしますよ~。有名な神社系ブログさんとか。
竜王神社というのが竜王山の東にあるんですが、拡大すると広さに驚いたので検索したら竜王山山頂にかけて上宮、中宮、下宮とありました。
因みに『竜王神社』の御祭神は玉依姫でした。そして配祀に神功皇后など。
最近、検索する時は語尾に『伝承』とか付けます。すると昔話的なものから色々出て来て面白いです。
川棚温泉?付近には青龍伝説が大地震の話と一緒に語り継がれていたりするお話とか。
鬼ヶ城山も鬼の伝承が出てきましたよ。
Commented by lunabura at 2013-06-03 23:29
なるほどですね。
伝承をつけるとまた違うんですね。面白い!
豊浦宮があったので、遠賀川の遠賀水軍と周防灘水軍は共同作戦を持ったようですね。
古墳のマップ、追加で出しますね。 (^-^)
Commented by のら at 2013-06-03 23:50 x
>遠賀川の遠賀水軍と周防灘水軍
『周防灘水軍』に惹かれます。
瀬戸内水軍や村上水軍等は昔SPドラマでやっていたりしたんで有名ですが、古代日本の周防灘にもあったらなぁと一時期調べたんですが挫折してしまいました(ToT)

防府の沖にある島には戦中、戦艦が進む様子が凄かったという伝承があったので海のルートとか古代から変わってないなら面白いのにな~と妄想していました(爆)
Commented by lunabura at 2013-06-04 00:08
1 栄山江流域の前方後円墳の被葬者は副葬品から考えて「周防灘沿岸、佐賀平野東部、遠賀川流域、室見川流域、菊地川下流域などに出自をもつ複数の有力豪族と想定」される。

2 公州市丹芝里の横穴古墳群の被葬者は、その形態が周防灘沿岸と遠賀川流域のそれと類似する点から、北部九州地域の倭人であり、百済王都の防御と関連する集団と推定できる。
(「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳」 ―古代九州との国際交流―  朴天秀(慶北大学考古人類学科教授)

公開講座で紹介した文ですが、周防灘水軍と呼んでいいのか分からないのですが、のらさんが御存じかもと思って、わざと書きました。
船は海の深さや海流で制限されるから、古代のルートと現代はほぼ同じだと思っています。
今日も志賀島の古代ルートを教えていただいて興奮しました。
記事にするには時間がかかるので、リアルタイムという訳にはいかないのですが。
Commented by のら at 2013-06-04 00:29 x
お役に立てず…(ToT)
関門海峡は平家物語でも語られているように地元民でないと難しい海流なので某SPドラマで大三島の大祝役をされたM繁さんのセリフを借りると周防『海族』(海賊ではない)はいたと思うんですが~。
通りすがりのブログか何かで読んだ文章には『古代、関門海峡は陸続きだった」説も気にはなってます。いつの時代までどうだったのかが知りたいんですがね~。太古は確かに陸続きだったのは門司の海峡プラザかどっかで映像が流れてたんですが…
Commented by lunabura at 2013-06-04 20:14
ウィキで瀬戸内海を調べると、陸地になったり海になったりしていますね。
長門の住吉神社では、かつては近くまで海だったということですから、神功皇后の時代は小船なら下関市内を通って移動できたのかなと思っています。
蓋井島にむかう吉見の湊からはきっと大型船に乗り換えたのでしょうね。
そこから北九州に向かったと伝わっています。
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー