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3 中ノ浜遺跡・土井ヶ浜南遺跡より少し前の時代の長身の弥生人たちの墓地だった


3 中ノ浜遺跡

土井ヶ浜南遺跡より少し前の時代の
長身の弥生人たちの墓地だった

吉見港を後にして、再び191号線を北上。川棚温泉を目指します。
道の左手に中ノ浜遺跡の案内板が見つかりました。
県指定遺跡なので、ちょっと期待。HPも確認して、ナビにも入力したし♪
191号線から西に左折。海に向かって走って行きます。

地図通りに川に出て、小さな橋を渡り、再び左折。
ところが、人家の間の生活道に入り込みました。
道を間違えたかな?
車がようやく一台通る道で、左右は生垣の枝に当たりそう。

正面から来た男性はさっさと自転車を降りて、道を譲ってくれる。
こんな細い道だから、自転車が譲るのが当たり前のような感じ。
お礼を言いながら、中ノ浜遺跡を尋ねました。
「この先、すぐですよ。」
間違えていなかった、と、一安心。

人家もすぐに終わり、砂の目立つ道に、「中ノ浜遺跡」の大きな標識を発見。
右に曲がると、墓場の中に入り込んでいた。
昭和のお墓…。
目指すのは弥生時代のお墓…。

このギャップにしばし呆然。
道の先は農道っぽく、舗装も終わり、Uターンもできそうにもない。
取り敢えず車をバックさせて、徒歩で先の方を確認。
「あった、あった。」
こちらからは見えない位置に、最後の案内板。
結局、昭和の墓地の中の駐車スペースに車を止めて歩いて行く。

あのHPを書いた人は、現地に行ってないな…。
適当に書いている。
ここは詳しい地図を出さないと不親切だよ…。ぶつぶつ…。

ま、このブログが道案内になるか…。
中ノ浜遺跡を書く人なんて滅多にいないだろうし。

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右は昭和の墓地。左の野原が弥生の墓地です。
砂丘の上で、とてもさわやかな場所でした。^^

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この外周円は環濠なのか!と気になって確認しにきたのですが、これは歩道でした。
どうやら草原になっている所がすべてが墓地です。
殆どが埋め戻されてこの円の中だけが露出しているようです。

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なだらかな砂丘のピークにあります。
埋葬方法がさまざまです。

説明板がありました。
山口県指定史跡 中ノ浜遺跡

中ノ浜遺跡は、北の土井ヶ浜遺跡(下関市豊北町)、南の梶栗浜遺跡(下関市大字富任)とならんで、響灘に面した砂丘上に営まれた弥生時代(前期~中期)の集団墓地です。

響灘沿岸は北部九州とともに弥生文化を最初に大陸から受容した地であり、全国的にも有数の規模を誇る弥生人の埋葬地がつぎつぎに発見されています。

当遺跡では、昭和35年以来、9次にわたる調査がおこなわれ、100基余りの墓と104体の弥生人骨が発見されました。

これらの人骨からみると、土井が浜遺跡の人骨に似て、面長でかつ長身という特徴をもっています。顔が丸く、背の低いそれまでの縄文人とは大きくちがっていることから、ここに葬られた人々は、弥生文化をもたらした渡来系の人であったと考えられています。

墓地の構成は、土壙墓、箱式石棺墓、配石墓などの多様な墓からなっていて、それぞれにつくられた時期やグループの異なりを表しています。

青銅の剣の副葬や断体儀礼の習俗もみられ、それらは全体として弥生時代の社会を明らかにし、かつ日本の文化の起源を知る上で大変貴重な遺跡となっています。

指定年月日 昭和50年3月22日

もう一つ、説明板がありましたが、ほぼ同様の内容。
追加として、
今から2300年ほど前、大陸や朝鮮半島から海を越えて来た人々がムラを作った。
弥生時代前期から中期にかけて数百年間にわたって営まれた。
ということです。

で、だね。
二つも立派な説明板があるのに、どこに行ったら人骨や出土物が見られるのか、
書いていない。これは各地の遺跡もそうだけどね。

写真だけでも掲載されていると、理解が深まるんですけどね。
(竹原古墳の悪夢を思い出す。悪夢とはオーバーだけど、あれほどの古墳なのに、
出土品の写真さえなく、尋ねてもどこに収蔵されているのかさえ分からなかった。

各地の出土品が現場から引き離されて、ただの美術品として資料館に陳列されている点が、
考古学と一般市民を引き離す原因の一つだと思ってます。

某館では、ずっと会いたかった石人像が故郷から引き離されて
デパートの陳列品のように、
その他大勢として並んでいたのを見た時のショックは今でも忘れられない…)

この中ノ浜遺跡から出土した土器については
たまたま下関市立考古博物館の企画展で見たので少し覚えています。
遺跡ごとに全く個性の違う土器群に驚いた中、
中ノ浜遺跡の土器は美しく、生活品でありながらも美的なものを求める日本人の
美しい手仕事の文化的ルーツかも!と思ったのです。
写真がないのでその印象も薄れつつあるのですが…。
(企画展は2013年6月30日まで。響灘沿岸の遺跡 -海に生きた人々)

写真がないかな~。
あ、そうだ。
チラシがあった、チラシ。
これこれ。
私はこのチラシを見て知ったのです。

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これは裏。
細型銅剣の時代ですね。
小壺は上のカラーの分のようです。
凛としていますね…。
右下は壺でなく、土器棺。
こんなの初めて!大きさはどのくらいだろう。


そして現在の収蔵地を一つ一つ見て、なるほど…と思いました。
分散してしまっているんですね、この遺跡の出土品たちは…。


弥生遺跡として重要な位置を占める遺跡でありながら、これまであまり公開されていなかったそうです。
人々が関心を持たなかったら、研究されずに場所だけが残る運命のようですね。

墓があれば、生活遺跡もあるはずで、
きっと吉野ヶ里遺跡に匹敵する遺跡があるんだろうな…。

時代は弥生時代前期~中期のものだそうです。
北にある土井ヶ浜遺跡は弥生時代終末~古墳時代初頭となっています。
時代がちょうどずれていますね。
どちらも面長で高身長の人たちだそうです。

この遺跡が途絶えたのは、津波なんかがあったのかな…と思っていたら、
南にある梶栗浜遺跡では高さ4mを超える高潮もしくは津波の痕跡があったとか。
ここもまた海の傍なので、そんな事があったのかも知れませんね。

帰り道は、墓地を出て右に曲がり海岸の方に向かいました。
こちらの方は道も普通で、橋も広く、通りやすい道でした。

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地図 中ノ浜遺跡 山口県下関市豊浦町大字川棚字中ノ浜






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by lunabura | 2013-06-14 21:35 | 響灘の遺跡めぐり | Trackback | Comments(2)
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Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2013-06-16 00:25 x
るな様、こんばんは。
遺物の散逸と遺跡の破壊とは、見聞きするだに痛ましいものがありますね。実家近傍の砦がみごとに削り取られ、埋め立て資材として売り飛ばされ、衝撃を覚えたことがあります。

金隈も弥生遺跡。身長の平均は、成人男子153センチ・女子148センチと書かれてあって、食糧事情を想像できるものでした。時代を下る鎌倉大路の500体は158センチ。当時の馬高120~130センチ。義貞軍と鎌倉武士との合戦模様は、ポニーで疾駆する中学生くらいの風体であったでしょうか。アラブ種などで行う現代の流鏑馬は、ムチャかもしれません。
背振以西と薩摩半島とは、縄文形質が濃厚と聞きます。薩摩半島南端の洞穴墳墓の成人男子と終戦直後のそれとでは、2ミリの身長差しかなかった、と地方紙。比較的移流が少なく、幕藩時代も貧困に喘いだ地域です。

遺物の残存性・文化の興亡など、ほんとのところ民衆の公益性と深く関わるので、一方的に保存の是非を問うべきでない悩ましい社会問題だと思います。この国は、担当者・所有者の良心の裁量を超えて、人口密度が過多なのでしょうか。
Commented by lunabura at 2013-06-16 22:53
前立腺隊じっちゃマンさん、こんばんは。
ホント、おっしゃる通りですね。
それに加えて、ようやく残されて記念館が建てられても、訪問者も少なく、いろいろと考えさせられます。
この遺産を未来にどう残すのか、これもまた悩ましいですね。
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