2013年 06月 18日
4土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム・矢を浴びた英雄は持衰かシャーマン?
4 土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム
矢を浴びた英雄は持衰かシャーマン?
「遺跡にも運、不運がある。」
遺跡関係の本に書いてあったなあ。
この大きなミュージアムを見て、そんな言葉を思い出しました。
ここはとても幸運な遺跡でした。
土井ヶ浜人類学ミュージアムは、展示の建物と、遺跡保存の建物の二つの構成になっています。
さあ、いきなり遺跡に行きましょう。
正面の小山の下に遺跡があります。
200体以上の弥生人骨が出土した中でも密度が高い所を公開しているそうです。
約80体の人骨が発掘時の姿で復元されています。
顔を西に向けているのが、特徴だそうです。
一番確認したかったのは矢が刺さった人骨。「貝輪をした英雄」です。
友人が話してくれたとき、「敵が攻めてきた時、一人でムラを守った英雄だ」と言ったのですが、
写真を見て疑問が湧いたので、見に来たのです。
至近距離から射られています。
「これは処刑じゃない?」
「うん、死刑だね」
これは夫との会話です。
(持衰かシャーマンではないだろうか。この人は何か失敗したんではないか…)
持衰(じさい)とは魏志倭人伝に出て来る、倭人独特の風習です。
倭の者が船で海を渡る時は持衰(じさい)が選ばれる。持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。(ウィキペディア)
船を守るのに失敗した持衰。
あるいはムラの命運を握る占いに失敗したシャーマン。
そんな妄想を抱きました。
ただ、この人たちを倭人とすると、問題が起こります。
響灘の弥生人は渡来人だと言う説と矛盾するからです。
弥生人のルーツを朝鮮半島や中国大陸にだけ求めると、倭人が行方不明になります。
魏志倭人伝などを見ると、倭人と朝鮮半島の人たちとはかなり風習が違うんですね。
「ねえ、倭人って誰?」
「縄文人たい。」
これはTとの対話。
でも、これもピンとこない。
倭国と言ったとき、縄文人の国ということになってしまう。
これは館内のパネル。
中央の青いイラストを見ると、土井ヶ浜の人たちは背が高く、縄文人は背が低い。
復元の顔は上が土井ヶ浜。左下が南九州・離島の弥生人。右下が関東の弥生人。
ずいぶん骨格が違うんだね。
この人たちみんなひっくるめて倭人というのだろうか。
これもパネルから。
手前の熟年男性の顔つきや身長は他の土井ヶ浜の人々と変わらないけど、
奥の壮年男性の顔つきは鼻が高く、顔のホリが深く、身長も低く、
西北九州から来た弥生人ではないかということです。
長崎県を中心とする西北九州には縄文人の特徴を受け継いだ弥生人が住んでいたそうです。
あるいは、地元の縄文人の末裔かとも。
縄文系人の四隅には墓域を示すような石がありますね。
土井ヶ浜人はそれに沿って埋葬されているような感じもします。
これは出土した丹塗の土器。
磨き込みがすごい。デザインも洗練されていて美しい暮らしが想像されます。
特に、右の土器は各地で出ているので注目している土器です。
三つともそっくりでしょ。
上の土器は朝鮮半島の金海市の池内洞遺跡から出土しています。
これは合わせ口甕棺のそばにそっと置かれていました。
朝鮮半島で出土したけど、倭人が持ち込んだと考えられるものです。
(逆にこの土器が倭国にもたらされたという意見もあるのでしょう。
この土器が半島から持ち込まれたとすると、この土器は弥生土器とは言えなくなります。
土井ヶ浜人が渡来人だとすると、やはり弥生土器とは言えなくなります)
ちなみに、金海市は狗邪韓国(くやかんこく)に比定されている所です。
倭人が最初に船を寄せる湊があり、帯方郡からの使者がここから倭国に向かう湊です。
何気なく使う言葉も、突き詰めると、人によって違う意味付けがされていたり、
矛盾していたりするんですね。
魏志倭人伝では、倭人像をくっきりと浮き出させているけど、
考古学的出土品を見ると、よく分からない。
う~ん。
どうなっているんだろうなあ。
山口県下関豊北町神田上891-8
土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム
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かねて、土の分析から製造地域を特定した結果、などという文言を聞かないこと、不思議に思っています。銅鏡の仿製が分析によって明らかになるように、産地、焼成条件など、簡明に特定できると良いですね。
同じ遺伝グループで、生存環境・食糧事情などによって、ずいぶん見かけが異なる場合もあるようです。デップリしたポリネシアンは縄文形質に近似、ハダカで漁をすると体熱を奪われるので、デブった、と読んだような。それにしても土居ケ浜人のデカさは際立っていますね。
南九州・離島の弥生タイプの説明は、親切でない気がします。九州の遺伝子・言語・農耕が波及するのは、奄美で12世紀、沖縄本島では16世紀を待たねばなりません。土居ケ浜の頃、南方離島への波及は、ゴホウラ貝・イモ貝などの採取に限られたなりわいだったように思います。
琉球のグスクは12世紀の草創、と喧伝しているのも、オランダが台湾に築いた貿易中継の砦と同質のもので、グスクに拠って対立するような内政実態は無いと思っています。
銅については大分に先生がいらっしゃるようですね。
土の分析も、どこかでされている論文を見た事がありますよ。
土器のように移動するものこそ、分析をどんどんしてほしいですね。
おっしゃる通り、土井ヶ浜の人たちはでかい。女性も大きいです。
たしか、中国史、魏書かなにかに、朝鮮半島の南の島に、とても大きい人たちが住んでいるという話が書いてあったのを思い出しました。
読んだ時は、ずうっと西から移動したんだろうなと思ったのですが。