2013年 06月 19日
土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム (2)
土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム (2)
前回、パネルについて質問をいただいたので、写真を掲載します。
質問。ミュージアムの大きなパネルで、土井が浜、山口、北部九州から
筑後・熊本までを囲んだ青い線は何を意味するのでしょう?
該当部分を拡大しました。北部九州に描かれた二つの青いラインについて
パネル全体を撮っていないので、推測になりますが、
西北九州と北部九州の違いを表わしたもののようですね。
土井ヶ浜から吉野ヶ里は渡来系の弥生人という意味でしょうか。
西北九州というのは長崎を中心とした弥生人ということでしょうか。
縄文が色濃く残っているということでしょう。
(あくまでも推測なので、ミュージアムに問い合わせる方が確実ですね(・.・;))
前回、掲載した二体の人骨の説明に「西北九州」という言葉が出て来ます。
引用すると
「弥生時代の人骨を研究すると、現在の長崎県を中心とする西北九州は
縄文人の特徴をそのまま受け継いだ弥生人が住んでいたことがわかりました。
彼らの特徴は、鼻が高く、顔のホリが深いということでした。
また身長は土井ヶ浜の人々と比べて低いことがわかっています。」
と書かれています。
土井ヶ浜遺跡については最新情報が知りたかったのですが、
人骨の比較研究などの本やシンポジウムの資料など見当たらず、手ぶらで帰って来ました。
家に帰って、過去のチラシなどを見ていたら、こんな記事が。
今から半世紀前の1953年、土井ヶ浜遺跡で初めて学術的な発掘調査が行われ、1957年の5次調査に至るまで、200体を越える弥生人骨とともに、数多くの弥生土器も出土しました。
お墓に供えられたと考えられるこれらの土器は出土人骨が弥生時代の人々であることを確証付け、集団墓地である土井ヶ浜遺跡の変遷過程や埋葬習俗、さらには当時の地域間交流を紐解く重要資料として古くから注目されてきました。
しかし、残念ながらこれらの土器資料の多くは長らく本格的な資料整理が行われないまま、限られた研究者以外、その全体像を目にすることは困難な状況にありました。
(平成21年度小企画展3)
誰かが土器資料を占有してしまったために、研究が出来なかったようです。
中ノ浜遺跡の場合は出土物が離散していたし…。
パンフレットに時代などが書かれていないのは、これが原因だったようですね。
響灘の遺跡全体の資料としては、
下関市立考古博物館 平成25年企画展Ⅰ
「響灘沿岸の遺跡 -海に生きた人々―」
の展示解説資料が、8ページほどのコピー資料でしたが、
全容が見渡せて読みごたえがありました。(6月30日まで)
これは展示されていた土井ヶ浜の土器です。
愛読者さん、以上分かる範囲ですがお役に立てたでしょうか。
山口県下関豊北町神田上891-8
土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム
いつも応援ありがとう。
にほんブログ村
情報ありがとうございます。そうか、くじらさんは詳しかったですね。
で、小郡市出土の弥生人骨って、どこのものですか?
渡来系弥生人の特質とはどんなものですか?
すみません。
時間があったら教えてください。
スルーしてもOKです…。
http://www.doigahama.jp/report/index2.html
また、弥生人の特質に関しましては、以下のページが判り易く纏められていると思います。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html