2013年 07月 17日
安曇族と志賀島(4)封泥としての金印
安曇族と志賀島(4)
封泥としての金印
「あっ、そうですか」
―ああ、そうだったのか。
今まで金印にはさほど興味が無かった るなですが、
鹿さんのその言葉に、金印が突然活き活きとした姿を現してくれました。
金印と言えばその読み方が話題となっていますが、
あまり古代の事が分からないので、判断のしようがなくてスルーしていました。(+_+)
でも、金印が封泥だとしたら判断しなくても楽しめるんですね。
「封泥」ふうでい。
それは、荷物が第三者によってほどかれた場合、すぐにバレルように作った仕組み。
紐の交差点に粘土を乗せて印章を押すしくみです。
それは人間の欲望が遥か古代からあったことの証し。
いかにも泥臭い人間のサガ。
盗もうとする人と、守ろうとする人。
その知恵比べの結果が封泥なんですね。
そうすると、これに携わった人々が何人も浮かび上がる。
荷を作った人。
中味を確認して紐をかける人。
泥を載せる人。
印章を保管庫から持ち出す人。
印章を押す人。
それを監視する何人もの人たち。
そして、それが船に乗せられて、異国の王に届けられる。
これは魏の時代のコオリ。黒い紐が残っていて四角いマッチ箱状の物が見えます。
それをアップしたもの。
これはテレビを撮影したものだから、魏がどの魏が忘れたけど、
後の方で220-265年。多分卑弥呼の時代のものだと思います。
竹らしき植物で編まれた技術をとくとご覧あれ。紐は麻ヒモっぽい。
板の小片はのこぎりで切り取られています。(けっこう難しそう)
封泥はそのくぼみに無造作に粘土を載せて刻印。文字は浮き彫り!
志賀島で出土した金印も封泥なんですね。
それでは金印を見てみましょう。
これが押した跡。
金印を粘土にエイヤと押すと浮彫が出て来るとは想像もしませんでした。
それで、福岡市博物館の画像を見ると、たしかに陰刻。
これは是非とも粘土に押印したものを見たいものですね。
この金印を貰った倭奴国の王は、朝貢する時、必ずこの印章で封泥したはず。
これは後漢の王が、「これで押したものを貴国の朝貢品として認めよう」
と言ったも同然だからです。
それは最後の出港地の現場で行われる可能性があります。
その考えは長崎街道展で見た絵から思いつきました。
これは長崎出島のオランダ商館で棹銅の計量と梱包を描いたものです。
長崎に運び込まれた輸出品の銅を一度開封して、中味と重量の確認をしているところです。
日本人とオランダ人が立ち会っています。
輸出物を船に乗せる前に必ず検査するんですね。
あ~あ。大変そう。
主婦感覚としては、頑丈に荷造りしたものを、またほどくの~?
そう思うんですが、確かに、偽物をつかまされないために、
あるいは分量をごまかされないためには必要なんですね。
輸出とは江戸時代でもこんなに厳密だったんだと驚いた絵です。
さて、話を志賀島の金印に戻しましょう。
この時代は日本には30程のクニがあって、てんでに後漢にあいさつに行っていたのを
中国の方から「代表の国を決めてくれ」と言われ、
代表となったのが倭奴国で、それを認証するための金印だという説があります。
当時の国はどれもが小さい国だったでしょう。
志賀島にも一つのクニがあったとしても不思議ではありません。
確かな事は、どんなクニも志賀島を通らないと中国まで挨拶には行けないことです。
安曇族のお世話にならないと海が渡れません。
きっと安曇の王の宮は近くにあることでしょう。
その管理地に金印があることはそれほど不自然ではないように思われます。
ということで、国際港である叶の浜あたりで、
各国の朝貢品が荷揚げされ、最後の確認をして封泥として倭奴国王の印章を押す。
そんなイメージが生まれました。
(つづく)
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