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安曇族と志賀島(5)金印は埋納されたのかもしれない


安曇族と志賀島(5)

金印は埋納されたのかもしれない


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勝馬(かつま)の海です。
この傍の国民休暇村の右手に小さな歴史資料館があります。

そこには志賀島の歴史や地勢などの資料が展示されていますが、
その中に金印の発見当時に藩に提出された口上書があります。
現物ではなく、タイプしたものです。

それを見て、きちんと報告書が書かれていたのが驚きでした。
口上書自体にも真贋の問題があるようですが、
そこに出土状況が書かれているので読んでみたいと思います。
時代は江戸時代です。

「金印発掘に関する届け書
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上る口上之覚

私抱田地叶の崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申迚岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有。之かな手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候者有。之二付取上水にてすすぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。(略)
                        志賀島村百姓 甚兵衛
天明四年三月十六日
津田源次郎様
       御役所
(略)
(るな訳)
私が抱えている田地が叶の崎という所にございまして、
田の境の溝の水の流れが悪うございましたので、
先月23日に、その溝の形を直して、岸を切り落としたところ、
小さな石がだんだん出て来まして、二人で抱えるほどの石がありました。
これをカナテコで掘り除くと石の間に光るものがありました。
それを取って水ですすぐと、金の印刻がされたような物でございました。
(後略)

これが金印の出土状況です。
私はこれまでは何故か大きな岩とは丸いものと思い込んでいたので、
訳してみて驚きました。

石は二人で抱えられる大きさで、カナテコで動かせたのですから、
これは平たい石ではないかと思われました。

説明では、この石に至る前に小さな石が出て来ています。
全体を推測すると、ドルメンのような平石の上に積石がされていたという印象です。
その平石をのけると石の間に金印がありました。

これが、どうしてこんな所に…と、多くの学者を悩ませています。
遺棄説(捨てた)、隠匿説(隠した)、漂着説(流れ着いた)、
奴国王の墳墓説(奴国王の墓の副葬品)、奴国の没落による金印の隠匿施設(隠した)。
いろいろと出そろっています。

これを訳してみて、るな的には、対馬にある埋納遺構と
同じようなものではないかと仮説を立てました。

対馬の埋納遺構というのは、
小さな石板で箱状に囲ったものの中に宝物を置いたもの、
あるいは宝物の上に石が置かれたりしたものです。
その形はきちんとしたものではないのですが、
古墳の副葬ではなく、独立した埋納施設と評価されています。

その遺跡は次の二つです。
シゲノダン遺跡 銅矛(九州から)短剣の束飾り(韓国から)鉄剣、
               馬鈴、やりがんな 天宝元年(西暦14年)の貨泉 ほか
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(地元の人が掘り上げたものを聞き取りして復元したもの。
いかにも大切に埋納されているようすが分かりますね)

クビル遺跡 銅矛 銅鍑(どうふく・煮炊き用の鍋)

これらの出土品は対馬では生産できず、九州からや朝鮮半島~中国からもたらされたもので、
交易あるいは褒賞によるものと思われます。
どちらも古墳の副葬品ではないのが特徴です。

その対馬といえば綿津見神社が鎮座し、
豊玉姫の墓や磯良恵比須の岩などが伝わっています。
安曇族のゆかり深い土地です。
志賀島から北上すれば必ず対馬を経由していく重要拠点です。

シゲノダン遺跡からは時代が特定できるものが出土しています。
西暦14年の貨泉です。
これに比べて、志賀島の金印が西暦57年
いずれも弥生時代ですが、活発に交流が行われていて、
弥生人は高技術の産物を目の当たりにしているのが分かります。

対馬の宝物の保管方法の基本的な考えは、平石で囲いを作って宝物を置いて
大きめの石で蓋をするというものと思われます。

ですから、金印の保管方法も、対馬と同様に小さな石で囲って金印を置き、
大きな平石をかぶせ、さらに小石を積み重ねた。
そんな埋納施設だったのではないかと考えています。

金印はもちろん細工の美しい素敵な箱に入っていたことでしょう。

石を使う意味
私は毎年、先祖墓に行く時、山登りの格好をして行きます。
山の中の墓への道というのは、一年行かなかったら、植物が繁茂して通れなくなります。
その場合、ナタや草刈り機で道を切り開きながら行くのですが、
ついに一歩も踏み込めなくなって、あきらめた場所が二か所あります。
(墓がどんだけある…?)

こんな植物の豊かに繁茂する風土で何らかのサインをその土地に残すとしたら、
石に頼るしかないんですね。
磐座に至る道にナビらしき大きな岩があるのも、そんな風土のせいだろうとつくづく思います。

話は戻りますが、
金印が不要になる原因として、相手国が滅んだので使用しなくなった
ということだって有り得ますよね。
(奴国を没落させなくてもいいのでは)

使えなくなった金印を保管するとしたら、保管場所の目印として
石を使うじゃないかなあ、と常々思うのでした。

当然ながら聖地に置かれたのでしょうが、
「大切なものだから、みだりに触ってはイケない」と言われると、
あっという間に藪の中になってしまいます。

こうなると三世代も後になると、覚えているでしょうか。
現代人がおじいさんの家の宝物の置き場所は?なんて言われてもピンとこない。
金印が忘れ去られたのもこんな単純な事情もあり?

口上書に「田の溝の修理中に」と書かれていたことから、
そこは元々、ある程度平坦な地形だったと思われます。

倭奴国の検閲所があって、津波を避けるために少し高い位置にあり、
常時使用するために建物の中に保管していた。

しかし漢が滅んで、金印が封泥として使用できなくなったので、
聖地に石を置いて金印を静置し、大きな石を乗せてさらに石積をした。
世代が代わり、戦さがあったりして、いつのまにか忘れられた。

そんなイメージが生まれました。
(ま、あの口上書が捏造だとしたら、また別の話になりますが)

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金印公園



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by lunabura | 2013-07-19 21:01 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(0)
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