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安曇族と志賀島(7)伊邪那岐命が禊をした「小戸」


安曇族と志賀島(7)

伊邪那岐命が禊をした「小戸」

鹿さんは「城の腰」を教えてくれたあと、「高天原」「高麗囃」という地名の近くを通り、
「小戸・大戸」に連れて行ってくれました。

「イザナギの大神のミソギ祓いをされた小戸は勝馬にある」
地元でもそう伝えていたのですね。

かつて一人で、地図を見ながら探し廻った場所に一発で到着。
まさか、地元の方に連れて来てもらえるとは思ってもいませんでした。
  また来たよ!
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ここは志賀島の最北部、綿津見三神を祀った元宮三宮に囲まれた所です。
綿津見三神はイザナギから生まれて、それぞれ三宮に分かれて祀られています。

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地図には他にたくさんの地名が書かれています。
かなり分かって来たのですが、「大戸・小戸」がよく分かりませんでした。
これ以上は具体的に詳しく特定できないだろうとあきらめていました。

ところが、思いがけず鹿さんが教えてくれました。
「小戸」と「大戸」は別です、と。

「大戸小戸」とは「大戸」と「小戸」を短縮して書いていただけでした。(+_+)

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龍さんがくれた志賀島の地図。
平成17年に福岡市東区によって書かれた地図です。

明神と書かれた所が沖津宮。それを挟んで大戸と小戸があります。
(どうやら安曇族の地名や名前の付け方の特徴に大・小を付ける特徴がみられますね。
大金・小金。大濱・小濱とか)

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これが現場。砂州から沖津宮(明神)を見ています。
この砂州から左が小戸、右が大戸です。

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左手の小戸です。ここは泡がよく立つので「泡ゆき」が「あわき」になったのでは、と。
沖津宮の白い鳥居が見えていますね。

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こちらが右手の大戸。かつては船は大戸から入港したそうです。
それでも赤瀬があって岩礁が多く、入ってくるのはとても難しかったとのこと。
波が荒い時には小戸の方に船を着けたそうです。


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先程の地図に元宮三宮を加えてみました。

鹿さんの話では、イザナギの命は左の小戸の浅瀬で禊をして、
右手の大戸で潜って禊をしたのではということです。
なるほど!

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それに倣ってでしょうか、志賀海神社の祭りの前の禊場は沖津島の岩のあたりだそうです。

思いがけない収穫でした。


そうだ。もう一つ知りたい事があった。


大戸小戸 大戸小戸というのは勝馬山の側に入り海のようにして、その東に穴がある。
深く入って際限がない。伝にいうには、志加皇神、神遊の瀬よりこの穴に出入りされた。ゆえに大戸小戸という。

「大戸小戸」では志加皇神が「神遊(しんゆう)の瀬」から穴に出入りしていたといいます。
「志加皇神」とは「綿津見三神を祖とした安曇族の神々」ですが、
「その神々が出入りする穴」というのにえらく魅かれまして。

見つけたいなあと思ってみても、人家や畑があって、一人では無理だと思っていました。

「あの沖津宮の島には洞窟はありませんか」
「いや、聞いたことはありませんなあ」
やっぱり無理か。

ところが、鹿さんはその後調べてくれていました。
「洞窟は畑のあるあたりがかつては入江で、外から見られないので洞窟のようだと言っていたそうですよ」
「そうですか。ということは、現在陸地になっている所なんですね」
 
 私は洞窟は沖津宮の島にあると思い込んでいました。
言われて、文章を読み直すと、「勝馬山の側に入り海」とありますね。
冒頭の地図を見ると分かりますが、思いがけず広い田畑が広がっています。
かつては入り海だったそうです。
今は沖積平野で、昭和に入っても土砂崩れで家が埋まったりしたそうです。

神秘的な入江とそこに隠れる舟の数々。
その奥に豊玉彦などの隠れ屋敷があったのでしょうか。
だんだん、古代の世界が見えて来ました。


そして、先程の地図に赤丸を付けているのですが、
「猪狩」という字名があって、びっくりしました。
  …また猪だ。

「猪」の地名にはどうやら「銅」が絡んでいるのです。
伊野天照皇大神宮の猪野。
位登八幡神社の付近の猪の地名と土折猪折の伝承。
製銅の民のシンボルは「猪」?

この猪狩の近くに神功皇后が太刀を打ったという太刀打神社があり、
また細型銅矛の鋳型が見つかったという場所もこのエリアです。
古墳もあるらしい。

この島には製鉄遺跡が見つかっていないのですが、鉄滓は出土しています。
鹿さんの話では
「志賀島の砂鉄のチタン含有量が10パーセント。
糸島が1パーセントなので、糸島産が溶けやすかった。
安曇族は鉄鋌を輸入していた」
という話でした。

糸島でも志賀島でも製鉄が試みられて、
よりよい鉄が出来た糸島の方が古代の一大製鉄所として発展していったんですね。

そうか。近畿地方の巨大古墳に眠る王者の鉄鋌のベッドも、
安曇族の働きがあってのことなんだ。

謎の遷宮
神功皇后の時代まではこちらが中心地で、その後、表津宮だけは
南の方に遷宮します。それが現在の志賀海神社です。

その原因については、土砂崩れが一番だったのではないかと思うようになりました。
また、皇后軍の新羅戦の時、大波(津波)が起こって新羅の中ほどまで
水が到達したことが『日本書紀』から伺えますが、
その返し波が日本海を襲った可能性があり、
北が開いている勝馬(かつま)は波を受けた可能性が考えられます。

そんな話をすると、鹿さんは
「そういえば、志賀海神社も元々は浜にあったのが、大波にさらわれたので
現在の丘の上に遷ったと聞いた事があります。日本海側で津波があったと思いますよ」
ということでした。
津波は一度だけではないのですね。


こうして、少しずつ古代の聖地のようすが明らかになりました。

そして、この日はもう一つターゲットがありました。
(つづく)




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by lunabura | 2013-07-22 21:26 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(0)
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