2013年 07月 25日
安曇族と志賀島(8)乙子神社の祭神は仁徳天皇の弟・稚郎子皇子命だった
安曇族と志賀島(8)
乙子神社の祭神は仁徳天皇の弟・稚郎子皇子命だった
その日のもう一つのターゲット。
それは
乙子森
乙子の森というのは志加大神の御子の御塚なり。御乳が少なくて辛苦された。
現代で乳汁の出が良くないものは水扱の器を作って祈れば必ず乳が出るという。
という乙子森さがしです。
「おとしのもり」と読みます。
志賀大神の御子の塚だということで、もしかしたら豊玉姫かもと思ったのですが、
志賀大神と志賀皇神は別だと分かったので、豊玉姫の可能性はなくなりました。
志賀大神とは安曇磯良のことですから、その姫の塚だということになります。
鹿さんはいとも簡単に「乙子神社」に案内してれくれました。
勝馬の小さな平野からいきなり高度を上げながら山に入って行きました。
細い車道もかつては人道で、他の村と行き交う唯一の陸路でした。

ほどなく車を止めるように指示があり、狭い路地に頭を突っ込むようにして駐車。
左手のガードレールの下の方に祠の緑の屋根が見えました。
地元の方に案内していただかないと、とても分からない所でした。

古代の神社の境内とはこのように自然林に囲まれてあったのでしょうね。

道路から下るとすぐに古木に抱かれた境内が。
そしてその祭神を見て驚愕したのでした。

「稚郎子皇子命」と彫られています。
『日本書紀』では「菟道稚郎子皇子」と書かれている「うぢのわきいらつこのみこ」です。
なぜ、ここに!?
誰もがそう疑問を持つはずです。
ウィキペディアを見ました。
応神天皇の皇子。(略)
父天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。
百済から来朝した阿直岐・王仁を師に典籍を学んで通達し、父の天皇から寵愛された。応神天皇40年(309年)1月に皇太子となる。翌年に天皇が崩じたが、太子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。
そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を殺そうと挙兵する。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知し、大山守皇子はかえって太子の謀略に遭って殺された。
この後、太子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。
尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は蘇生し、妹の八田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたという。
「菟道稚郎子皇子」という名前は聞いたことがあっても、
このような事件があったのは知りませんでした。
美談と書かれていますが、どうみても話全体が不自然ですね。
誰が見ても、捏造されていると思うでしょう。
この事件が神功皇后の孫に当たる世代の話だというので、
こんな事になってしまったのかと、残念な思いもします。
その皇子が志賀島の山の中に祀られている。
情報は「点」だけなので、何とも妄想のしようもないのですが、
これもまた、志式神社の祭神のように、安曇族は真実を知っている…
そんな思いがします。
勝馬が、景行天皇、神功皇后が参拝するような聖地だったということが
すでに分かっているので、
応神天皇やその御子たち、と続けて参拝があったのかも知れません。
そして、対馬の綿津見神社を検索していて、
仁徳天皇の時代にも、異敵が本州の西を襲おうとした話があったのを見つけました。本州の西といえば、あの蓋井島(ふたおい)の話を思い出します。
仲哀天皇の豊浦宮の時代に、新羅がいったん上陸して占領したのを
神功皇后が戦って取り戻したという話です。
その後、ついに新羅を討って凱旋した話になっているけど、
まだまだ不穏な時代が続いていたということになります。
そうすると、再び安曇族の援助を得る為に皇家が
神功皇后に倣って志賀島にやって来たという可能性が出て来ました。
なかには久米皇子のように、客死した人たちもいたのかも知れません。
そういえば、元宮の沖津島には隼人の防人がいたとも聞きました。
話を戻しましょう。
祭神の名前に「菟道」の字が付いていないのは一つのヒントです。
薨去後に地名が付けられたのでしょうから、
もともと「稚郎子皇子」だったと言えるのではないでしょうか。
仁徳天皇の兄弟が祀られているのは乙子神社だけではありませんでした。
近くの山には兄の大山守命が祀られているそうです。
今はブッシュになって道が無くなっているとか。
こうしてみると、
筑紫には、まだまだ手が付けられていない歴史の真実が残されているようです。

車に戻ると、向こう側がよく見えました。
平地がある…。
何故、山の中にこんな広い平地があるんだ。
池の跡なのだろうか。
結局、探していた志賀大神の御子の塚については分かりませんでした。
しかし、時代的にはそれほど離れた時代ではないのですね。
まだ、どこかに古墳が眠っているのかも知れません。
そうすれば、きっと 石棺墓でしょう。

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by lunabura
| 2013-07-25 20:46
| 安曇族と志賀島
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