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ひもろぎ逍遥

 若八幡神社(5)女神たち 神夏磯媛と速津媛

宇佐・安心院トレッキング(5) 

 若八幡神社(5)
女神たち 神夏磯媛と速津媛


今朝、目覚めながら「彦山川よ」というマーサの声が蘇りました。
  そうか。彦山川が流れていたんだ。

 若八幡神社(5)女神たち 神夏磯媛と速津媛_c0222861_21585882.jpg


それは、旧道を峠越えして若八幡神社に辿りつくかなと不安になった頃でした。
車は大きな川に出ました。
その時、マーサが「彦山川よ。最近来たばかり」と言ったのです。
それから、間もなく若八幡神社に着きました。

祭神はこの地区を開発したという神夏磯媛
神夏磯媛が香春岳の向こうにある採銅所とはどう関わったのか謎のままでしたが、
この言葉で謎は解けました。
川がヒントでした。

地図 若八幡神社 金辺川 彦山川 採銅所




若八幡神社の前には金辺川が流れているのですが、それが彦山川と合流するのです。
古代の道のメインは川です。
二つの川の合流点を押さえる事は銅の道を支配する事になるのです。
香春岳の銅は二つの川を下って響灘沿岸へ、
あるいは銅の道を通って春日市へと運ばれて行ったのです。
ここは古代の要衝の地でした。

地図 香春岳 若八幡神社 鏡山大神社



金辺川は香春岳の麓を通って鏡山大神社に通じます。
香春岳の両脇に控えた二点を押さえることは銅山を守る事でした。
神夏磯媛はそんな場所にクニ作りをしました。
しかも、たぶん不本意に。


この地区は神夏磯媛が開発したと一言書いてありますが、
弥生時代にどれほどの苦労があっただろうか、想像もつきません。


そこで、『日本書紀』から神夏磯媛が書かれた部分を抜き出してみましょう。

景行12年秋7月に熊襲が叛いて朝貢しませんでした。
8月15日に天皇は筑紫に向かいました。
9月5日に周芳(すは)のサバに着きました。

その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに
「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」と言いました。
そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。

そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。

神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八束の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。

「どうぞ兵を差し向けないで下さい。我らは叛くようなものではありません。今こうして帰順いたします。ただ服従しない者たちが他にいます。

一人は鼻垂(はなたり)と言い、勝手に自分は王だと言って山の谷に集まって、ウサの川上にたむろしています。

二人目は耳垂(みみたり)と言って、しばしば略奪してむさぼり食ったり、人々を殺したりしています。御木(みけ)の川上に住んでいます。

三人目は麻剝(あさはぎ)と言い、ひそかに仲間を集めて高羽(たかは)の川上に住んでいます。

四人目は土折猪折(つちおりいおり)と言って、緑野の川上に隠れ住んで、山川が険しいのを当てにして、人民をさらっています。

この四人は要害の地に住んでいて、それぞれに住民がいて、一国の首長だと言っています。それらは皆『皇命には従わない』と言っています。どうぞすぐに攻撃して下さい。時期を逃さないで下さい。」と言いました。

そこで、武諸木たちはまず麻剝の仲間を誘いこむ事にしました。赤い上着や袴や珍しいものをいろいろと与えて、かねてから服従しない他の三人を連れて来るように言いました。すると、仲間を連れて集まって来ました。武諸木たちは彼らを残らず捕えて殺しました。

天皇はついに筑紫に入り、豊前の国の長峡(ながお)県(あがた)に着いて、行宮を建てて住みました。そこを京(みやこ)と呼ぶようになりました。

桜もちさんは、この地形から姫は行橋辺りにいたのではないかと推測しています。
のらさんは、佐波では神夏磯媛は
「美人は不幸になるから、ここには美人が生まれませんように」と言ったと教えてくれました。
(福岡なくて良かったぁ…)

神夏磯姫は天皇の使者が来ると聞いて三種の神器を船の舳先に掲げて迎えに行きますが、
これは服従の意味ではなく、正装だということが和布刈神社の社伝から分かりました。

同様に三種の神器で迎えた熊鰐五十迹手もみな天皇家を支えてきた人たちだったので、
神夏磯媛ももともと古来から支えてきた人たちと思われます。
『日本書紀』の姫のセリフは捏造でしょう。

神夏磯媛は佐波で生まれ、周防灘沿岸のクニを治める女王となったと思われます。
行橋を中心とした古墳文化の華やかさを思うと、かなりの繁栄していたことでしょう。

しかし、香春岳の近くに居を移さねばならなかった。
行橋を中心とした古墳文化の華やかさを思うと、かなりの繁栄だったことでしょう。

しかし、香春岳の近くに居を移さねばならなかった。
それは景行天皇の命令だったのではないでしょうか。
天皇は神夏磯媛の都を乗っ取ったのかも知れません。
神夏磯媛の人生は景行天皇によって狂わされたようです。


景行天皇の子供は80人と書かれています。
これが誇張だとしても、いったいどれだけの女性が天皇の意に従ったのでしょうか。

意に従って身を委ねるか、従わないか。
従わなければ死が与えられる。

葛築目(くずちめ)は殺されてしまいました。
筑紫や豊の女王たちは命懸けの選択を迫られたのです。

景行天皇の九州制覇にはその問題が常に付きまとっていたと思われます。
弥生時代、九州は女王たちの治める小さな国々が沢山あったからです。

神夏磯媛は生きる事を選んだ。
そう思っています。

 若八幡神社(5)女神たち 神夏磯媛と速津媛_c0222861_2214328.jpg

(若八幡神社 神夏磯媛を祀る神社)

さて、景行天皇の欲望については仮説に過ぎなかったのですが、
思いがけず、今朝、そらさんが、宇奈岐日女神社をブログに掲載してくれて
立証されました。
偶然だとはいえ、すごいタイミングです。

まずは、『日本書紀』の神夏磯媛の続きを読みましょう。              

冬10月に碩田(おおきた)の国にやって来ました。その国は広くて大きくて美しくもありました。そこで、オオキタと名付けました。速見の邑(むら)に着きました。女人がいて、速津姫と言いました。クニの首長でした。速津姫は天皇が来られたと聞くと、自ら迎えに出て言いました。

「この山に大きな石窟があり、ネズミの石窟(いわや)と言います。そこに二人の土蜘蛛が住んでいます。一人は青といい、もう一人を白と言います。

また直入(なおいり)の県(あがた)の彌疑野(ねぎの)には三人の土蜘蛛がいます。一人を打猨(うちさる)と言い、二人目を八田(やた)と言い、三人目を国マロと言います。

この五人はみな力が強く、仲間も多いのですが、みな「皇命には従わない」と言っています。もし強引に召せば、兵を挙げて手向かうでしょう。

天皇はそれは良くないと思って進みませんでした。そこでクタミの邑に留まって、仮宮を建てて住みました。それから群臣たちと話し合って、
「今、一挙に大軍を投入して土蜘蛛を完璧に討とう。もし我らの軍勢の勢いに恐れをなして、敵が山野に隠れてしまえば、後の憂いとなる。」
と言いました。そうして、椿の木をツチ(ハンマーの類)に加工して武器にしました。

それから強い兵士を選んでそのツチを授け、山を穿ち、草をはらって、石室の土蜘蛛を襲って、稲葉の川上で破り、ことごとく一党を殺しました。血が流れて、くるぶしまで浸かりました。のちに時の人はその椿のツチを作った所を、海石榴市(つばきち)と言いました。また、血が流れた所を血田(ちた)といいます。

次に打猨を討とうとして、彌疑(ねぎ)山を通りました。その時、敵の矢が横から打ち込まれました。官軍の前に矢が雨のように打ちこまれました。

天皇はいったん城原(きはら)に戻って、占って川のほとりに陣を構えました。そして軍隊を整えて、まず八田を彌疑野で撃ち破りました。すると打猨は、これは勝てないと思って、「服従します。」と言いましたが、天皇は許しませんでした。打猨たちは皆、谷に身を投げて死にました。

その速津媛が祀られているのが宇奈岐日女神社です。

wikiから。
神社の名称となっている宇奈岐日女の名は祭神の中にはない。宇奈岐日女はかつて湖であった湯布院を盆地に変えた女神であると伝えられている。「うなぐ」とは高貴の巫女がうなじに飾った勾玉の飾り物の意味で宇奈岐日女は 豊後風土記に登場する当時この地を統治した速津媛(祈祷師)で景行天皇の寵愛を受けたこの媛の愛称と考えられる。
Wikipedia.ja


寵愛を受けたと綺麗事で書かれていますが、その心境はいかばかりか。
神夏磯媛も速津媛もクニの民の為に涙を呑んだ。
『日本書紀』に書かれていない女神たちの苦悩を知る事になりました。

それでも弥生の女神たちはきっと前を向いて生きたことでしょう。

宇奈岐日女神社の訪問記はブログ「空 sora そら」にあります。
http://sora07.exblog.jp/20800042
◆宇奈岐日女神社 大分県由布市湯布院町


湯布院なんですね!




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Commented by sora07jp2000 at 2013-08-03 05:25
ご紹介ありがとうございます。私は何の知識もなく,その日の天気と気分で巡っているのですが,るなさんの記事で,古代の出来事,姫達の姿が次々に明るくなってくるのがありがたいです。
Commented by lunabura at 2013-08-03 19:48
速津媛に関してはまさかのシンクロニシティーで、とてもびっくりしました。
私はこの女神については知らなかったのです。
たまたま景行天皇を読みなおして気づいたので、これは
神計らいかと思って急遽、記事にしました。
あの美しい湯布院の女神。早く会いに行きたいですね。
Commented by 桜もち at 2013-08-04 22:08 x
るなさん、こんばんは。
記事を拝読させて頂き、思わず涙がでました…。
私も、夏磯姫の生きた時代の豊の国を明らかにし、廟に報告することを目標にしているので、るなさんが姫の苦悩を訴えてくださることに感謝しています。
Commented by 桜もち at 2013-08-04 22:11 x
夏吉と採銅所の関係ですが、若八幡から香春岳の間にある五徳川(金辺川支流)を遡ると五徳峠があるのですが、峠越えをすると採銅所の『清祀殿』の脇に出ます。道幅の狭い山道ですが全舗装で、香春神社前を通り採銅所(清祀殿)に向かうより車で5分以上速く着きます。
この清祀殿より金辺川対岸正面に味見峠(宇佐放生会の神鏡奉納ルート)があります。
Commented by 桜もち at 2013-08-04 22:13 x
因みに、五徳越えルートの夏吉側は、五徳畑ヶ田遺跡(弥生前期後半~平安中期)や香春二ノ岳鉱山があり、香春町内でも古墳が集中しているエリアで、採銅所側は、ミノ台地遺跡(弥生中期~)や、三ノ岳の間歩の殆どが、このルート沿いにあります。
Commented by lunabura at 2013-08-04 22:15
桜もちさん、こんばんは。
こうして、豊の桜もちさん、佐波ののらさんと、二人の女性が
このブログに集って、点が線になり、
夏羽と田油津姫の最期から、神夏磯媛の時代が明らかになったのも、不思議な出来事ですね。
ところで、廟はどちらにあるのですか?
若八幡神社ということでしょうか。
ここも、八幡の前の社号が明らかになればいいなと、今、ふと思いました。
Commented by lunabura at 2013-08-04 22:22
五徳峠というルートがあるなら、すぐ近くなんですね。
香春岳の東側にはまだ行ったことがないのですが、
神社が多くて、驚いています。
それに加えて、そんなに遺跡が多いなら、まだまだ明らかになるものが沢山ありそうですね。
歴史資料館などがあればまずはそこから行ってみたいです。
Commented by 桜もち at 2013-08-06 23:00 x
るなさん、こんばんは。

夏磯姫の廟のあとと云われているのは、若八幡ではないんですよ。
若八幡は、香春岳→夏羽屋敷跡→大宮司屋敷へと流転し、元々は山王権現を祀っていた現在地へは慶長年間に移転したようです。
私の妄想ですが、若八幡境内周辺には10基の古墳(若八幡神社境内古墳群)があるので、これらが夏羽一族の墓との伝承があり『封じ込め』の場所として改めて選ばれた?それに当初関わっていたのは天台宗かも?と考えてます。
Commented by lunabura at 2013-08-07 20:55
若八幡は香春岳にあったのですか。
封じ込めは最澄がしたと書いてあるので、その方法でしたのでしょうね。
古墳群は筑後国造さんが、探査しようとして、地元の人に入れないと言われたというレポートを書かれていましたね。
ブッシュになっているのでしょうか。
国乳別皇子や葛築目(あるいは田油津姫)の蜘蛛塚なんかは前方後円墳と言われているので、若八幡神社の古墳群が夏羽一族とすれば興味深いですよね。
夏羽屋敷跡は特定されているのですか?
Commented by 桜もち at 2013-08-20 23:01 x
夏羽の屋敷は、特定されてないと思います。
古説では『屋敷跡の森は平地にあったので、大宮司屋敷に若八幡を移した』とあるのと、『夏吉社頭由緒書』によると、夏羽は岩屋(ゴウヤ)の主で、最後は岩窟に立て籠ったようなので、若八幡神社のある丘陵地の裏側(岩屋地区麓)の平地の何処か?
但し、隣の方城町にある岩屋神社の伝承では、立て籠っていたのは『麻剥』だとのこと…、添田町史では、その『麻剥』が居たのは添田で『猪折』が居たのは英彦山と主張しているので真偽は不明です(笑)。
Commented by lunabura at 2013-08-20 23:21
桜もちさん、ありがとうございます。
錯綜しているのですね。
でも、誰かが岩窟に立て籠もったという記憶が地元にあるんでしょうね。
猪折の英彦山説もあるんですね (・.・;)
英彦山にも銅山があるから、やはり猪さんの一派でしょうかね…。
Commented by 特命希望 at 2021-05-01 12:01 x
初めまして。九州の女王達ですが、じつは案外ノリノリで大王に従ってるんじゃないですかね?
まず昔の人間は夜這いやら何やらで貞操観念が薄かったようですし、地元民なら優しくて余所者なら邪悪とも限りませんから。イジメやセクハラ、嫁いびりやジェンダー押し付けにうんざりして都会や隣町に出ていく田舎の若者みたいなもんです。
アステカのマリンチェって女性の伝承みたいなもんが実態だったのでは?
by lunabura | 2013-08-01 22:20 | 若八幡神社・わか・田川市 | Comments(12)

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