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ひもろぎ逍遥

宇佐神宮3 上宮 比売大神考

宇佐・安心院トレッキング(13) 

宇佐神宮3

 上宮 比売大神考


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瀟洒な西大門をくぐり抜けて、本殿へ。

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こんな角度から本殿前に出ます。勅使を迎える準備で修理中です。

御祭神は
一之御殿 八幡大神〔誉田別尊(応神天皇)〕
二之御殿 比売大神[多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命]
三之御殿 息長帯姫命
です。
その由来についてはHPにこう書いてありました。

御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。

宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。比売大神様は八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。八幡神が祀られた6年後の731年(天平3年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。

いよいよ話題の比売大神ですが、八幡神以前に「地主神として祀られ」ていたと書かれていました。
八幡神を祀った6年後に、二之御殿が造立されたということなので、
愛読者さんがコメントされたように、祟りを恐れての祭祀かもしれません。

この「地主神」という表現ですが、神社の境内マップを見ていると、
上宮内に北辰神社が見えます。そこにはこう書いてありました。
北辰神社
比売大神の脇殿といわれ、本宮の地主神と伝えられる造化三神を祀っています。上宮西中門の中に鎮座しています。

比売大神のすぐ横に祀られている地主神は比売大神ではなく、造化三神でした。

その三神の名は
天御中主神(あめのみなかぬし)
高皇産霊神(たかみむすび)
神皇産霊神(かみむすび)
です。

北辰とは北極星のことなので、星神が地主神だったということになります。

地主神が二組あります。これはどう解釈したらいいのでしょうか。

マップを見ていると、「大元神社遥拝所」があることに気づきました。
大元神社は御許山にあり、奥宮と言われますが、祭神は比売大神三柱で、
比売大神が降臨された神山とされています。
御許山山頂には磐座があり、禁足地となっています。

推測が許されれば、最初の地主神は造化三神だったのが、比売大神信仰に変化したと考えられます。
それは祭祀する氏族の変化によるものでしょう。

そして、三女神とは宗像三女神というより、水沼三女神という方が
時代的には上手く説明できると思いました。

「三女神」について、
宗像の君がもちいつく神とあるのは『古事記』。
水沼の君がもちいつく神とあるのは『日本書紀』です。
いずれも同じ三柱の女神です。

何度か書いていますが、宗像族という名称は比較的新しいのです。
(新しいといっても古代の尺度で、ですが)

私の仮説は「みぬまかた」が「むなかた」と変化したのだろうというものです。

神功皇后軍を支えた多くの海人族の中に、水沼水軍がありました。
当時三女神を祀っていたのは久留米市の赤司八幡宮でした。
景行天皇が祭壇を設けて祈り、わざわざ自分の皇子を天皇代行として残しています。

水沼君は神功皇后を迎え、有明海まで船で送り、田油津姫攻撃に参戦。
そのまま唐津に抜けて、安曇水軍の先導で新羅へ。

凱旋後に福岡市名島神社、北九州市和布刈神社に三女神が祀られています。
それは水沼水軍の湊の使用権・占有権の宣言でしょう。
それを宣言したのは神功皇后でした。戦いの褒賞と思っています。

この時、水沼族は筑後川流域から、玄界灘~響灘に出て来たと思っています。

その当時、祭祀者はまだ「水沼かた」と呼ばれていたのではないでしょうか。
それが「むなかた」と変化するのは容易です。
以上が私の仮説です。

そしてこの仮説を裏付けるものが安心院(あじむ)に見つかりました。
水沼の君が三女神信仰を持って宇佐に来ていたのです。
詳細は安心院にて述べましょう。

以上から、宇佐神宮の場合、当初は水沼君の三女神だったと思われます。
水沼三女神と書く方が、しっくりくるのかも知れませんね。

ただし、比売神そのものについては、別の神とする神社もあるので、
その時に検討したいと思います。

こちらに、三女神の伝承の宮を集めています。

三女神伝承の宮々
http://lunabura.exblog.jp/i203/


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Commented by tukifune83 at 2016-05-12 03:02
お久しぶりです。水月です。

初歩的な質問で申し訳ないのですが、ルナさんは、古事記と日本書紀の記述はどちらが古いと思われますか?
Commented by lunabura at 2016-05-12 22:28
水月さん、こんばんは^^

『古事記』と『日本書紀』の「記述」・・・
それは
①記述した時期(成立の時期)
②記述内容
③その他
のどれでしょうか。
もう少し、具体的にお願いしますね。
Commented by tukifune83 at 2016-05-14 01:25
すみません、記述、ではなく、伝承でした。m(_ _)m

Commented by lunabura at 2016-05-14 22:52
考えたことがなかったので、記紀の一行目だけ見たら、
どちらも宇宙創成から始まってますね。
全部読む力もありません。
ということで、答えは「どっちが古いか分からない」となりました。

Commented by tukifune83 at 2016-05-15 03:30
ありがとうございます。
るなさんのご意見を聞きたかっただけなので…(;´∀`)私もそこのところ、良く分からないので質問してました。

ただ、古事記の方が素直な印象があります。そして、ちょこっと調べた中では古事記は古代もしばらく封印してたという様な。そんな記事を何処かで読んだ気がします。

先代旧事本記等にしても、今では確かな資料になっている様な、いない様な。よく分かりませんが昔よりは認知されている様ですので、偽書と呼ばれるものでも学者さん達の努力で真書になる時が来るかもしれませんね。(;´∀`)
るなさんの「脇巫女」も遠い未来に「真書」となる日が来るのかもしれませんね…(#^^#)
Commented by lunabura at 2016-05-16 08:37
先代旧事本紀も現代語訳が出て、手近で見られるようになったようですね。
多くの史料が一般人にも手に入り、研究が進めば新たな発見はたくさんあると思います。

「脇巫女」これは・・・(^^;
by lunabura | 2013-08-17 10:40 | 神社(ウ) | Comments(6)

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