2013年 09月 04日
妻垣神社(足一騰宮)1 神武天皇が母・玉依姫を祀らせた
妻垣神社(足一騰宮)1
つまがき・あしひとつあがり
神武天皇が母君・玉依姫を祀らせたという
三女神社の次に妻垣神社に参拝しました。
「妻垣」はいろんな読み方があるようですが、神社の由緒書に「ともかき」と書いてありました。
コメントによると、神武天皇も三女神社から当社に向かったという伝承があるそうですね。
(同じルートを辿ったんだ!!)
三女神社は周防灘から駅館川(やっかんがわ)を遡上して
安心院(あじむ)盆地に入った時、最初に舟を泊めるような地形でしたが、
そこからさらに支流を遡上していったのでしょう。
平坦な地形から、当時は湖沼で、葦原だったのではないかと思われました。

今はそこに青々とした稲が風にそよいでいます。
目指す妻垣神社は正面の烏帽子型をした妻垣(ともかき)山の三合目あたりにありました。

一の鳥居です。かつては石段を登っていったのですね。
今はその横に車道が通っています。
ヘアピンカーブをぐっと登ると神門前に出ますが、駐車場はそれをやり過ごして先の方にありました。

車から降りて神門に向かいましたが、この参道から入ると、
当社もまた横から参拝するような配置になっていました。

一旦神門に出て、入り直ししました。

深い紅色の拝殿です。
当社は二礼二拍手一礼です。
御祭神は
比咩大神(玉依姫命)八幡大神 神功皇后です。
当社は宇佐神宮を中心とした八ヶ社の一つですが、
このように、比売大神に関しては「玉依姫命」と明記してあり、他社と一線を画しています。
その由緒について、書き写しましょう。(一部改変)
妻垣山(ともかき山)は太古、比咩大神の御降臨された霊地にして、宇佐神宮第二殿と言はれる。この山は比咩大神の降臨地で、宇佐神宮の第二殿ということです。
八幡大神は称徳天皇、天平神護元年宇佐八幡、此の地に行幸、駐輦の地に同年十月八日、勅使石川豊成に八幡の神託有り、神殿を創建し奉祀。神功皇后は淳和天皇、天長年間に御勧請し奉祀。
八幡大神と神功皇后は後に合祀されています。
当社が玉依姫を祀る事情について、さらに詳しく書いてありました。
足一騰宮
神武天皇、御東遷のみぎり、宇佐国造の祖、莵狭津彦、この処に宮殿を建立、奉賛餐せる旧跡で、当時、天皇、天種子命を以て、神武天皇の母后玉依媛命を祭らせ給う。
当社は比咩大神を祀って八幡社と号し、かつては普賢寺以下四坊の神宮寺を擁し、当郡、中津、島原の領民百余村の氏子を有し、宇佐郷の宗社として崇敬され今日に至る。
神武天皇が東遷の時に、莵狭津彦が宮殿を建てて、もてなした旧跡で、
天皇が母君を天種子命に祀らせたということですね。
それゆえに、比咩神とは玉依姫だということです。
思いがけないところで、玉依姫に再会しました。
さて、足一騰(あしひとつあがり)の宮。
この不思議な名前の宮は『古事記』に出て来ますが、
いつかは行って見たいとかねがね思っていた宮でした。
神武天皇と宇佐津彦の伝承と共に、こうして現地が残っているとは感激です。
『古事記』の神々から抜粋してみましょう。
イハレビコの命は同じ母から生まれた兄のイツセの命とお二人で、
高千穂の宮で話し合いました。
「どこに行ったら、平らかに天の下にあるこの国の政治をして、
臣下たちの奏上する話が聞けるだろうか。やはり、東に行こう。」
と言われて、日向を発って、筑紫に行きました。
そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、
その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が
足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。
そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。
またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年刊滞在しました。
さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。
イハレビコが後の神武天皇ですが、母が玉依姫ですね。
イハレビコを迎えて食事をもてなしたのがウサツヒコ、ウサツヒメですが、二人は兄妹だそうです。
当宮から岡田宮に移動しています。
岡田宮は一の宮神社という名で、熊鰐一族が現代に至るまで、
その磐境神籬(いわさかひもろぎ)を守っていましたね。
どちらもその神籬を守っているのですから、素晴らしいです。
神武天皇もまた、祖神を祀って神助を得る事が大移動の一つの目的でした。
ほかには、物部氏に迎えられて馬見山の祖神を祀りにも行きましたね。
そして、ここは?
縁起からは、神武天皇が玉依姫を祀らせたのですが、
もともと別の目的があって来訪したはずです。
当地は真鍋大覚の記述から、鉄を作っていた所と考えています。
神武天皇は武器の調達に来たのではないか。
それは「足一騰」という言葉そのものが教えていました。
(つづく)
妻垣神社
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