2013年 09月 18日
カノープスの和名(2) 諏訪星
カノープスの和名(2)
諏訪星
今日は『儺の国の星』(16諏訪星)p76からです。
肥前境の坂本峠(536米)や綾部峠(497米)を越す旅人は、早春から初夏にかけて夕霞のなかに、ほの白く沈む有明海のはるか彼方に上がる大きな星を見ることが多かった。これが老人星Canopus、又の名Swahil(スワヒル)の姿である。星座表をみると、18時の出現は2月8日から5月19日の百日間である。
カノープスの画像を検索すると、東京の高層ビルから撮影された映像が出て来ます。
思ったより北の方でも見えるんですね。
九州は南なのでカノープスは更に見やすいのでしょうが、
背振山あたりでは、日暮時に、有明海から上がるカノープスが見られるようです。
ステラ・シアターで2014年2月8日に福岡でカノープスは見えるのかなと調べました。
すると、カノープスの星の出は19時50分頃。星の入りが23時20分頃でした。
上のイラストは21時29分。南中時ですから、これ以上高くは昇りません。
それに比べて、シリウスは早くから夜空に輝き、上図の後は、
どんどん進んで大きな半円を描いて行きました。
佐賀の山の峠からだと18時頃にはカノープスが昇るのが見えそうですね。
この星の出の時間が時代によって変化していきます。
次は江戸時代の話です。
(略)
諏訪星は荒神(あらがみ)の象徴であり、これが水平線に姿を見せる時が、まさに節分に一致した時代があった。今から353年昔、即ち寿老人(じゅろうじん)が諏訪星の化身として七福神の初夢の波上舟(なみのりふね)の上に画かれる時代に一致している。そして又、鬼払いの豆撒きの行事が天下を風靡して流行したころにもなっている。
荒神とされるカノープスは歳差運動により、353年前には節分、2月4日ごろに見えたので、鬼払いの豆撒きと繋がってしまったようですね。
次はもっと古く、縄文時代です。
諏訪星が48日ないし59日早く見えて、今の冬至から春分の間に入った時代は3388年ないし4164年前のことであるが、この頃、肥後益城阿高貝塚3379年前、肥後玉名繁根木貝塚4173年前の頃であった。
当時はまさに有明海が背振と耳納、四王寺を三つの海峡で仕切っていた時代でもあった。
南の烈風は激しく潮波をたてていたのであるが、有明(ありあけ)なる名の由来が遠くギリシャ古語のxiak(カイアック)にあったことも知らなければならぬ。
諏訪星は勇猛果敢な南人、赤蛮、安羅の大挙渡来を意識させていたのである。
(渡来は渡米を変更)
縄文時代には、カノープスは冬に現れたようです。
貝塚の年代が出ていますが、物部氏の測量法では、その時どんな星が南中したかで、
年代が明らかになるようです。
(「針摺」を参照してくださいね)
これは洪水マップで、標高30mラインです。(昭和28年の大洪水ラインに近いですね)
縄文時代は有明海が奥深く侵入して、南風が吹くと激しい荒波が立っていたというので、
このような地形の時でしょうか。
真鍋は「有明」(ありあけ)の語源はギリシア古語にあったと言います。
古代ギリシア語のカイアックがアリアケに変化したのですね。
カノープスは南人、赤蛮、安羅人の大航海による渡来を思わせるようです。
う~ん。これは「八」の人たちのこと?
中東から日本に到着する人たちは熊本などの西海岸に到着し、有明海を北上したということでしょうか。
(つづく)
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