2015年 05月 12日
八幡の謎(6)復習編
八幡の謎(6)
復習編

(宇佐八幡宮)
今日から、中断していた「八幡の謎」に再び取り組みたいと思います。
最後の記事は、もう一か月も前になっていました。
内容をすっかり忘れたので、(5)まで読み返したのですが、
よく理解できていない自分の姿が目に付くだけで…、困ったもんです。
まとめないと、次に進めないな…。
ということで、今回は1~5(3を除く)の復習です。
(1)宇佐の御許山の禁足地にある三個の巨石は、水星が太陽を回るのに
三か月かかるという天文現象が由来である。(水星三囲)
水星は明けの明星と宵の明星の時期があり、別名「晨星、辰星、三圍星」とも言う。
極東(日本)に移り住んだトロヤ民族は北斗七星を見て、水汲みを連想し、
水星と北極星を重ね合わせる信仰をした。
中国では漢人も、都では黄河が北から南に流れるので、北=水源というイメージが出来て、
北の星として水星を配置して、玄武の座とした。
(2)日本人は「水源」を古代は「をもと」、中世は「みなもと」と言った。
水源には、「水星三囲」によって、三石をあげて水源が安泰であるように祈った。
仏教が盛んになると、各地で、インドのサラスワティ(水の神)、中国の弁財天という水源の女神を置いたり、
妙見菩薩に見立てたりしたが、八幡の本地である宇佐だけはこれを許さなかった。
山頂に立てられた三石(ささくり)は風を呼び、雨を招く三種の神器であった。
「ささくり」とは蹈鞴で作った金石珠玉を指す。
「ささ」とは三日月形の形容で、時には黎明の朝を指した。
「くり」とは重く凝結した金石のことで、星や隕石の化身と信じられた。
これは、水星が太陽の至近距離を回って、朝に姿を見せて昼に消えるようすを、
蹈鞴の燃える炎と生じた金のしずくに見立てたからかもしれない。
(4)占星術は中国では春秋の時代に王室で用いられていた。
倭人は占星術を唐代には辰方(しょうほう)、宋代には正法(しょうぼう)と呼んだ。
葛城一言主は占星術を濫用して、都の氏族をたがいに殺戮させていた。
八幡とは星占(からまに)すなわち辰方のことで、和気清麻呂が宇佐八幡宮に下向した時に用いられた。
そのころの宇佐は日本における世界教の中枢的存在として、日本の国運を
太宰府の背景のもとに客観的に展望していた。
(5)八幡の暦は金星暦だった。「八幡」の語源は「金星暦の5年」が「太陽暦の8年」に
「満つ」(同じ日数だ)ということから付いたとも言われる。(五條八旗)
金星暦…584日×5年=2920日
太陽暦…365日×8年=2920日
天神(道真公)と八幡が合体して「天満」という言葉が湊に付けられるようになった。
八幡の祠は大月氏族の礼拝堂、霊廟、あるいは耶蘇の教会の形式だったのが、のちに神社となった。
以上、真鍋大覚『儺の国の星』『儺の国の星・拾遺』から抜粋して綾杉か解釈したものです。
誤解釈がある可能性があるので、引用は原典の方をしてください。
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