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ひもろぎ逍遥

細石神社(2)王と王妃墓 コノハナサクヤ姫夫婦説


細石神社(2)

王と王妃を埋葬する三雲南小路遺跡
木花開耶姫夫婦墓説

前回の『古事記』の「木花開耶姫」を読み返していると、
この神話を糸島の歴史の中で捉えられないだろうかという気持ちが湧いて来ました。

そこで、今回は神社の裏の王と王妃の遺跡との関連を見て行きたいと思います。

細石神社(2)王と王妃墓 コノハナサクヤ姫夫婦説_c0222861_21582177.jpg

拝殿です。その向こうは平野です。
平地のど真ん中にある神社は福岡では少ないと思います。

細石神社(2)王と王妃墓 コノハナサクヤ姫夫婦説_c0222861_21584126.jpg

参拝を済ませて振り返ると山が目に飛び込んできました。
高祖山です。
正面の峠は日向峠と思われます。

どうして、山の神の娘、磐長姫と木花開耶姫の二女神が平地に祀られているのか。

地形から読み取ろうとすると、この神社は山を拝してはいません。
山の方から人々はやって来て参拝するようになっています。

二女神の名がどうして唐突に出て来るのだろうか。

Wikipediaには
この「細石神社」は「三雲南小路遺跡の、日子番ノニニギ命と木之花咲耶姫の墓の拝殿」であると考えられる。

という考えが書かれていました。

この「三雲南小路遺跡」(みくもみなみしょうじ)は弥生時代中期後半
(紀元前1世紀頃)のもので、江戸時代に1号甕棺、昭和に2号甕棺が発見されています。

1号甕棺からは銅鏡35面、銅剣、銅戈、銅矛、勾玉、璧、金銅製四葉座飾金具が出土。
2号甕棺からは銅鏡22面以上、ヒスイ製勾玉、ガラス製勾玉、管玉などが出土。
(『伊都国散策マップ』より)

銅鏡の数が35面とか、22面とかは、半端ない量です。
壁はガラス製です。壁が持てるのは間違いなく王者です。
副葬品から王と王妃とされるのは問題ないですね。

紀元前一世紀の墓ですが、盛り土がされていて、一辺33メートルの正方形だったそうです。
周囲に溝が掘られ、古墳時代まで何度も修復された形跡があるそうです。
長らくクニの人々に祀り続けられていたのですね。

この遺跡ついて調べていたら、なんと自分も記事にしていた
(あは、またもや忘れとったあ)

伊都国歴史博物館(2) 三雲南小路遺跡
剣は上向き、朱を入れた壺は逆さまに置かれていた
http://lunabura.exblog.jp/15461398/

細石神社(2)王と王妃墓 コノハナサクヤ姫夫婦説_c0222861_2122512.gif

このように、銅剣が邪の侵入を防ぐ働きをしていると考えられる事から、
すでに銅剣は祭祀具となっていて、鉄剣の時代になっていたと考えられています。

伊都国の銅剣はすべて中国由来のものだそうで、
壁とともに、中国との交流を示すものとなります。

イラストの小壺の朱は水銀朱で、墓の周囲から朱を精製するための杵なども
多数出土しているそうです。

「これより以前の弥生墳墓とは隔絶した内容を伴うものであり、
まさに「クニ」の絶対的な統治者としての伊都国の始祖王であったとみている」
(『倭国創生』より)

考古学的評価は「伊都国の始祖王」とされていました。



細石神社との関係はどうなのでしょうか。

細石神社(2)王と王妃墓 コノハナサクヤ姫夫婦説_c0222861_221053.jpg

主軸がずれているのが気になりますが、あまりの近さに驚き。
古墳を祭祀する施設が神社になったと考えて全く無理はありません。

ウィキペディア説では、この「王と王妃」は「ニニギの命と木花開耶姫」となります。
しかし、神社の祭神は「磐長姫と木花開耶姫」の二女神。

ウィキペディア説を肯定するのは現状では無理だと思いました。
何か、決定打が欲しいですね。

この航空写真を見て思うのは、神社の主軸線が墳墓の北にあるので、
もう一つ、主軸の反対側に墳墓があったかもしれないということです。
方形の墳墓がきちんと東西南北を捉えている点からも、気になる所です。

(つづく)

細石神社 糸島市



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by lunabura | 2013-12-03 22:06 | (サ行)神社 | Comments(0)

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